刀剣とアーカイブズ ―当館所蔵 信濃国松代真田家文書から―
通常展示の一部のスペースを使って、当館所蔵の作品を展示いたします。
会期:
2019年7月11日(木)~9月14日(土)
休室日:日曜日・祝日、夏季一斉休業(8月13日~15日)、展示室整備日(9月11日(水))
近年、ゲームの影響もあり、空前の刀剣ブームとなっている。多くの博物館・美術館などで刀剣に関わる展示が開催されている。刀剣は武器であると同時に、贈答品として、美術品として珍重された。とりわけ近世の大名家の場合、刀剣の管理を専門に扱う部署が設置され、管理のための文書(アーカイブズ)が作成・保管された。今回は信濃国松代藩真田家の刀剣をめぐるアーカイブズを展示することで、アーカイブズから近世大名家の刀剣をめぐる様相を検討してみたい。
なお、真田家の刀剣を多く所蔵する真田宝物館(長野市)では6月29日より9月23日にかけて、「真田×刀」という特別展を開催している。真田家所縁の刀剣が一堂に会する初めての展示であり、こちらも合わせて見学されたい。
展示ケース1
<吉光御長持入記>1-1
真田家における「御当家第一之御品」は、初代藩主真田信之の次男信政が徳川家康から拝領した鎌倉中期の名刀工「吉光」作の短刀であった。
この短刀を収めた「吉光御腰物箪笥」は、参勤交代の際には「吉光御長持」(「入櫃」)に収納され、江戸と松代を行き来した。また、松代城では、「入櫃」と一緒に花の丸御殿御広間の床の間に飾られた。
本資料は、天保4年(1833)に家老・大目付らが「吉光御長持」の中身を調査したときの記録である。これを見ると「吉光御腰物箪笥」は、短刀を収納するのみならず、真田家にとって最も重要と考えられた文書類(アーカイブズ)の保存容器でもあったことがわかる。
<御腰物箪笥入記>1-2
「吉光御長持」の中には、宝暦13年(1763)の時点で「吉光御腰物箱」(吉光御腰物箪笥)のほかにも重要文書を入れた「青貝御紋附御文庫」「御城物箱」「御朱印箱」などが収納されていたが、その後、箱の老朽化や藩主の指示により、容器の統廃合、収納文書の入れ替えが行われている。
本資料は、「吉光御長持」に入っていた位記・口宣・御判物写・御領知目録写・郷村帳などを天保3年(1832)閏11月に「御腰物箪笥」へと移し替えたときに作成されたものである。なお、この「御腰物箪笥」は、藩主の手元近くに置かれていた箪笥であろうと推測されている。
<(御役方起原并勤方沿革申上控)>1-3
「吉光御長持」に収納された各容器を管理したのは、御金方と御納戸役であった。宝暦13年(1763)には、「吉光御腰物箱」と「御城物箱」が御金方預かり、「青貝御紋附御文庫」と「御朱印箱」が御納戸役預かりとなっている。
本資料は御金方(払方)が作成したもので、展示部分は、御金方が御腰物を取り扱うようになった由来を記した箇所である。これによれば、元禄8年(1695)以来、御金奉行就任者が御腰物役を兼ねる事例が連続したため、その後は自然と御金方が管轄するようになったとある。
展示ケース2
<御腰物帳>
当館所蔵の真田家文書に残る御腰物帳。
前列右側にある8代藩主真田幸貫所用の「肥前国忠吉御刀」の記述があるものは、慶応4年(1868)作成の「御大小扣帳」で、御側御納戸から御金奉行へ差し出した刀剣類が掲載されている。そのほかの御腰物帳は、明治2年(1869)10月に9代藩主真田幸教が死去したことにともない、幸教の御側御納戸から真田家家扶・家従へ引き渡された刀剣類を記載したものである。水戸藩の徳川斉昭が自作した短刀や幕臣の川路左衛門尉(聖謨)から贈られた鍔など、伝来の経緯がわかるものも散見される。
展示ケース3
<御刀番日記>3-1
<御湯治中日記>3-2
藩主に近侍する役職として御刀番・御膳番という役職があり、このふたつの役職を合わせて「両御役方」と称した。当館は両御役方の日記を177冊所蔵している。
御刀番の日記には藩主の動向をはじめとして、当該時期の幕府の老中などの名前も記されている。展示している天保2年(1831)8月の「御用番」と記された人物は、右から老中の松平康民(周防守)・水野忠邦(越前守)、若年寄の堀親寚(大和守)・森川俊知(内膳正)、奏者番の間部詮勝(下総守)、留守居の松平乗譲(内匠頭)である。
また、万延元年(1860)には御刀番による「御湯治中日記」が作成されており、藩主・真田幸教は、現在でも多くの湯治客で賑わう湯田中温泉へ赴いていることが分かる。
展示ケース4
<奥村三左衛門書状>4-1
奥村三左衛門から御金奉行へ出された書状で、家老・大熊衛士の指図で「御刀景光」1腰を遣わした旨である。この書状に登場する「御刀景光」は備前国(現在の岡山県)の刀工・長船景光である可能性が高く、隣の展示ケースの「御腰物帳」にも複数記されている。綴られているのは景光の刀などを移送するという書状でまとめられていた。御金奉行が管掌する御金方は藩の金銭取り扱いを行う部署であるとともに、藩主の刀剣の管理も行っていた(種村威史「払方御金奉行の財方における役割について」、『史料目録第90集 信濃国松代真田家文書目録(その11)』)。
なお、松代藩御用商人を務めた八田家の場合、景光の刀を所持しており、加賀藩お抱えの鑑定士である本阿弥光春に鑑定をしてもらった資料が遺されている。
<鞘巻御太刀之絵図>4-2
詳細は記されていないものの、奥村三左衛門書状などともに一括して保管されていた鞘巻の絵であり、保管されていた現状を踏まえれば「御刀景光」の拵えである可能性が高い。包紙の上書きは文化10年7月19日に御金方が記しているが、それによれば次のように記されている。
文化九申年於江戸表御拵被 仰付候、
御鞘巻御太刀之図、其節懸り合相勤候宮島平右衛門、
此表御納戸江持参ニ付、後之為御見合相仕廻置申候
現代語に訳せば、「文化9年、江戸において御拵えが仰せ付けられた。この図はその時に担当を務めた宮島平右衛門がこちら(松代)の御納戸へ持参したので、のちの御照合のために仕舞っておきます」。