「令和」の時代
通常展示の一部のスペースを使って、当館所蔵の作品を展示いたします。
会期:
2019年5月9日(木)~7月9日(火)
休室日:日曜日・祝日、展示室整備日(6月12日(水))、臨時休室日(7月8日(月))
お祭りのように賑やかに、令和の時代が祝福ムードで明けました。
248番目となる元号「令和」への改元は、初めて国書が出典となって『万葉集』から採録された点が、これまでとは大きく異なっています。そこで、日本文学の基盤的な総合研究機関である国文学研究資料館でも、このたびの改元の意義を考えるための参考になる、さまざまな資料の展示を試みました。中でも、元号候補になった原典の紹介は初めてのことと思います。これを機会に、自国の古典文学に関心を持つ方々がより増えてくることを願ってやみません。
展示ケース1
<万葉集[まんようしゅう]近世初期写本>1-1
「梅花歌三十二首并序」の詩序の作者には、大友旅人・山上憶良・未詳の3説がありますが、詩序の部分に読み仮名が振られた本は多くありません。展示のものは、江戸初期の写本で、詩序にも振り仮名が付けられたものですが、「令」とある振り仮名は必ずしも奈良時代当時のものであったとはいえません。『万葉集』の編まれた奈良時代はおもに呉音で発音されていました。そのため、「令」の呉音は「リョウ」、漢音と常用音は「レイ」。一方、「和」の漢音は「カ」、呉音は「ワ」ですが、現代の常用音は「ワ・オ」。元号は書きやすさとわかりやすさが求められる原則なので、「令和」(レイワ)[REIWA]と、読み方とローマ字表記が規定されました。
<万葉集[まんようしゅう]寛永20年刊本>1-2
「初春令月、気淑風和、梅披鏡前粉、蘭薫珮後之香」(初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす)
『万葉集』巻五「梅花歌三十二首并序」詩序の句の意味は「新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香の如きかおりをただよわせている」。
「令月」には異表記を持つ諸本があったようです。「令」「月」それぞれの左右の書き込みを見てください。
「令→今」(「或」本)
「月→日」(「官」本)
との異本表記が左右の脇に書かれています。これらの異表記があることは、『万葉集』の諸本の文字の違いを詳細に記録した20世紀の大著『校本万葉集』にも、
温故堂本(室町末・文永新点本)は「令」を「今」
京大本(室町末・文永新点本)は「月」を「日」
と記されています。なお本書には、上田秋成・契沖・北村季吟・荒木田久老ら諸家の説が書き込まれています。
展示ケース2
<文選[もんぜん]>2-1
『万葉集』巻五「梅花歌三十二首并序」詩序にある「令和」の語は、直接的には六世紀に梁の昭明太子編の『文選』第三巻に収められる張平子(衡)(AD78-139)「帰田賦」中の
「仲春令月。時和気清。」
(仲春の令月に。時和らぎ気清みたり)
に典拠が求められるといわれています。
内題・尾題は「文選刪註」。外題「文選素本」。唐代の六人の注(李善と呂延済・劉良・張銑・呂向・李周翰の五臣)がまとめられたいわゆる六臣注本です。
なお、『万葉集』巻五「梅花歌序」の冒頭部は王羲之「蘭亭序」(『古文真宝』後集にも収められます)を髣髴させるとも言われますが、「令」「和」は近接しては現れません。
<春曙抄[しゅんしょしょう]>2-2
清少納言が『枕草子』の類聚章段で採り上げる「文は」の段に
「文は 文集 文選 はかせの申文」
とあります。
展示資料は流布本の能因本系によるものです。文集は『白氏文集』、はかせの申文は、博士が自分の任官を求めるために上奏する佳麗な四六駢儷文のことで、いずれも漢文の名文が多いです。
なお、三巻本系の本文は、
「書は、文集。文選。新賦。史記。五帝本紀。願文。表。博士の申文」
と内訳が異なっています。
<徒然草[つれづれぐさ]>2-3
『枕草子』を手本に作られた『徒然草』第十三段にも、「見ぬ世の友」として『文選』を含む漢籍が採り上げられ、親しまれていたことが分かります。
「ひとり、ともしび(灯)のもとにて文をひろげて、見ぬ世の人を友とする、こよなうなぐさむわざなれ。文は文選のあはれなるまき/\(巻々)、白氏文集、老子のことば、南華の篇(荘子)。この国のはかせ(博士)どものかけるものも、いにしへ(古)のは、あはれなることおほ(多)かり。」
(振り仮名は原文のものによります)
展示ケース3
<古事記[こじき]>3-1
「令和」を含めて新元号の候補に上がったものは全部で6つ。その内、3つが国書由来のものだったといわれています。「英弘」と「広至」がそれで、それぞれの出典を調査してみたところ、以下のものが出典箇所と考えられます。
英弘は『古事記』の太安万侶が記した序文の後半の、天武天皇のさまざまな施策を褒め称える表現から採られています。
「敷英風以弘国。」
(英れたる風を敷きて国に弘めたまひき)
「英風」はすぐれた教え。「国に弘めたまひき」はそれを国に広くゆきわたらせることをいいます。
<日本書紀[にほんしょき]>3-2
広至は『日本書紀』巻19・欽明天皇31年4月の条が出典と考えられます。
「豈非徽猷広被、至徳巍巍、仁化傍通、洪恩蕩蕩者哉」
(豈 徽猷 広く被らしめて、至徳 巍々に、仁化 傍く通せて、洪恩 蕩々なるに非ざるならむや)
遭難し漂着した高麗の使者を郡の役人が助けた報告に対して、下された天皇の詔です。
高麗の使者の命が助かったのは、よい政治が広く世をおおい、徳は高く盛んで慈愛に満ちた教化が行われ、恩恵があまねく行き渡っていることではあるまいか
と、思いやりが広く行き渡ることを願う意図が込められています。
<續日本紀[しょくにほんぎ]>3-3
広至は『日本書紀』以外の六国史に、もう一件見あたります。
『続日本紀』巻8(養老2年12月丙寅)
「思欲広開至道。遐扇淳風。為悪之徒。感深仁以遷善。有犯之輩。遵令軌以靡風。」
(広く至道を開き遙かに淳風を扇ぎて、悪を為す徒、深仁に感じて善に移り、犯すこと有る輩、令軌に遵いて風に靡かんことを思欲う。)
[広く最善の道を示し、遠くまでも純朴で正しい風俗を奨励して、悪業を行う者も深い慈悲に感じて改心し、すでに罪を犯した者も法に従って良い風俗に馴染むようにさせたく思う。]
元正天皇(女帝)の養老二年十二月七日(719 年1月1日)の大赦の詔(みことのり)に見える言葉です。
展示ケース4
古来、新しい元号を決める際には複数の元号候補が挙がり、それぞれの典拠とともに、問題点を論議することが行われました。その記録は『年号勘文』(まとまった資料に高辻長成『元秘別録』や『迎陽記』などがあります)と呼ばれる資料に残されていますが、その際に採用に漏れた元号が後年になって新たに採用されるということも少なくありません。
「令和」選定時に挙がった他の漢籍由来の候補「久化」・「万保」・「万和」も同様で、それらは全て過去に挙がったものでした。ここでは、その出典について森本角蔵『日本年号大観』を参照して、原本とともに紹介していきます。
<周易經傳[しゅうえききょうでん]>4-1
「久化」は『易経』第三十二卦 恒 「雷風恒」 震上巽下が出典と考えられます。
「日月得天而能久照四時變化而能久成。聖人久於其道而天下化成。」
(日月は天を得て能く久しく照らし、四時は変化して能く久しく成し、聖人はその道に久しくして天下化成す。)
[日月は天の動きに従ってこそ永遠に照らし続けることができる。四季はそれぞれ変化することによって永遠に循環することができる。聖人がこの道を守り続けることによって天下の天地万物は産み育てられていくのである。変化の中にこそ恒久がある。それぞれの恒久とするところを見極めるならば、天智万物の真の姿を知ることができる。]
<詩経[しきょう]>4-2
『万保』は『詩経』(毛詩)小雅・瞻彼洛矣が出典と考えられます。
「君子万年、保其家邦」
(君子万年 其の家邦を保んぜん)
[祖先の霊は万世まで我々の国を安んじなさる]
寛延・宝暦・明和・安永・享和・嘉永・文久・慶応選定時の候補。
<史記評林[しきひょうりん]>4-3
「万和」は『史記』五帝本紀第一・黄帝が出典と考えられます。
「置左右大監、監于万国。万国和,而鬼神山川封禅与為多焉。」
(左右大監を置き、万国を監せしむ。万国和らぎ、而して鬼神山川の封禅は与して多なりとなす。)
[(黄帝は)左右の大監を置いて万国の監督をさせたので、万国は平和になった。そして天子は天地山川の鬼神を祭って封禅の儀式を行うのが通例だが、その中で黄帝が行った封禅が一番盛大であった。]
貞和選定時の候補。
同じ五帝本義の黄帝の巻のやや後に、以下の文があります。
「百姓昭明合和万国。乃命羲和。敬順昊天。」
(百姓昭明にして万国を合和す。乃ち羲和に命じて昊天に敬し順う。)
[百姓、昭にして、万国を合和(共和)す。乃ち義・和(義氏と和氏、共に代々天地を掌る官についていた)に命じて、敬みて昊天(天、そら)に順い、人々が、それぞれ徳を明らかにすれば、世界の共存繁栄がはかられる。そこで、義氏と和氏に命じて、天を敬わせた。]
また、『書経』舜典にも「百姓昭明、協和万邦」とあり、こちらは昭和の典拠にもなった言葉です。