大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

知の開国‒明治150年によせて‒

会期:平成30年5月10日(木)~7月10日(火)
休室日:日曜日・祝日

 明治を生きた人びとの文章を読んでいると時々「ちゅう以来」ということばに出会います。「癸丑」とは60通りある干支かんしの一つで、ペリーが浦賀へやってきた嘉永6[1853]年を指します。時代の動きを大きな尺度で捉えようとした時に明治人が選んだのが「癸丑以来」という認識の枠組みでした。ペリー来航を起点として欧米を中心とする世界システムへの日本の組み込みが始まります。今から150年前の明治維新は、この大きな社会・文化変動の過程に生起したものです。
 この展示では、こうした変動を知の開国という切り口から眺めてみようと思います。この列島に住んでいた生活者の目に世界はどのようなものとして映ったのか、目でみることのできない西洋の思想と感性を知識人たちはどのように理解し、我が物としようとしたのか、当時の本を手がかりとして探ります。

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展示ケース1

【特設】明治、ケース1

【世界の中で日本はどのようなポジションを目指すか--中江兆民『(さん)(すい)(じん)(けい)(りん)(もん)(どう』】

 明治を代表する言論人・思想家である中江兆民(1847[弘化4]年--1901[明治34]年)が1887[明治20]年5月に出した『三酔人経綸問答』は、欧米諸国が強力な主人公として君臨する世界史に組み込まれた日本が、どのようなポジションでその一員となるべきかという課題に挑んだラディカルな思考実験の書である。紳士君・豪傑君・南海先生という三人の間で繰り広げられる、非武装中立かそれとも他国を奪い取って国を富ませるかなどといった議論は、今でもアクチュアルな知的刺激を読者に与えつづけている。
 この『三酔人経綸問答』には、兆民が最後まで推敲を重ねていた自筆の稿本が残されている。刊行されたものと比較すると、末尾の約600 字ほどが稿本から失われており、また、他にも刊行されたものにしか見られない部分があるので、最終稿ではないが、それに近いものである。
 徳富蘇峰の『漫興雑記』(1898[明治31]年)に収められた彼の回想の中に、兆民が『三酔人経綸問答』の稿本を持参して知り合いだった井上毅に見せたというエピソードがあり、展示した稿本に含まれる浄書稿(冒頭部分はそれに当たる)が井上の手にしたものだった可能性がある。また、『三酔人経綸問答』の冒頭部分は、明治20年4 月15 日に発行された『国民之友』第3号に「酔人之奇論」として掲載されているが、この稿本には、その時点からさらに兆民が本文に手を入れていった跡が残っている。(詳しくは谷川恵一「中江兆民『三酔人経綸問答』稿本について」(国文学研究資料館『調査研究報告』37 号)を参照。国文学研究資料館ホームページの学術情報リポジトリからPDFファイルでダウンロード
 なお、中江篤介が兆民という号を用いはじめるのは本書の出たすぐ後の明治20年8月に刊行された『平民の目さまし』が最初で、そこでもやはり問答の形式が用いられている。

<三酔人経綸問答 (自筆稿本)>中江兆民 著 明治20年(1887)写 1-1
<三酔人経綸問答>中江兆民 著 明治20年(1887)刊 1-2
<国民之友 第3号>中江兆民 著 明治20年(1887)刊 1-3
<漫興雑記>徳富蘇峰 著 明治23年(1900)刊 1-4
<平民の目さまし>中江兆民 著 明治20年(1887)刊 1-5

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展示ケース2~3

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【戯作はどのように西洋をとらえたか--仮名垣魯文と絵師たち】

 江戸の中頃から登場した戯作の中で、幕末・明治になっても盛んに作られ続けた滑稽本や合巻は、幕末の開国にともない、海外ことに西洋の風物や人物を多く取り入れるようになった。仮名垣魯文(1829[文政12]年--1894[明治27]年)は、そうした動向をリードしていった代表的な戯作者である。
 幕末に出した(おさな)()(とき)(ばん)(こく)(ばなし)(1861[万延2]年--1862[文久2]年)で、水滸伝や児じ雷らい也やなどのよく知られた物語を下敷きにしてアメリカの初代大統領ワシントンを登場させていた魯文は、明治時代になると、当時の東京や横浜の町人たちの間で湧き起こった西洋へのあこがれにこたえる、虚実の振幅の大きい物語を次々と書いて行く。
最後の戯作者とも称される魯文の著作では、江戸期の戯作の伝統を承け、本文とならんで、当時の絵師たちが腕を振るった表紙や口絵・挿画などのヴィジュアルなイメージが大きな比重を占めている。
 十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』の主人公弥次・喜多の孫たちが、折からロンドンで開かれる万国博覧会を見物に出かける途中で繰り広げるドタバタをつないでいったのが『西洋道中膝栗毛』である。福沢諭吉の『西洋旅案内』や内田正雄の世界地誌『輿地誌略』などを用いて、知り合いの見聞を織り交ぜながら書かれてい
る(末尾の十二編以降は総生寛によって書きつがれた)。口絵や挿画は、落合芳幾(初編--四編、六編--十一編)、二世歌川広重(五編)、河鍋暁斎(十二編--十五編)の三人が描いている。
 倭国(やまと)(かな)西洋(せいよう)文庫(ぶんこ)は、ナポレオンの一代記を戯作に仕組んだものだが、コルシカ島の漁師の息子に生れたナポレオンが大わにざめ退治で名を挙げて国王からパリに呼ばれることから物語が動き出すといったストーリーからもわかるように、現実のナポレオンとは似ても似つかぬ物語となっている。表紙や挿画を描いたのは歌川芳虎。『倭国字西洋文庫』に対し、、(つう)(ぞく)()()()(おん)(でん)ではほぼ事実に即したナポレオンが描かれているが、これは旧南部藩の学校で洋学を教えていた長沼熊太郎が翻訳したものを魯文がわかりやすく書き改めることによって作られたものだからである。口絵は四世歌川豊国が描いている。
 格蘭(ぐらんと)()(でん)(やまと)(ぶん)(しょう)は、第十五代アメリカ合衆国大統領だったグラントが、大統領を退いてから出かけた世界漫遊の途中で日本を訪れた際に出されたグラントの伝記で、1879[明治12]年に刊行された山田亨次『米国前大統領グラント君の伝』に手を加えるかたちで作られていて、かつての荒唐無稽ともいえる空想はもはや見いだすことができない。携わった画師は小林永濯と梅堂国政で、国政が描いた三編の表紙は、グラント歓迎のために東京の京橋にあった新富座で催された七十人あまりの芸妓たちの総踊りを描いている。
 『西洋料理通』は、カレーライスやマカロニスープなど、全部で百十種の西洋の料理の作り方を簡単に記したもので、河鍋暁斎が口絵と挿画を担当している。魯文と暁斎のコンビで作った本は、これ以外にも、『牛店雑談()()()(なべ』(1871[明治4]年--1872年)・『河童相伝(きゅ)(うり)(づかい』(1872年)などがあるが、福沢諭吉の『頭書大全世界国尽』にならって出された世界地誌『首書絵入世界(せかい)都路(みやこじ』にも暁斎ならではの各国の人物の活き活きとした図像を見ることができる。
 西洋と日本というかけはなれた二つの世界をなんとか結びつけようとしたメディアとして、これらの戯作は大きな役割を果たした。

<倭国字西洋文庫>仮名垣魯文 著、歌川芳虎 画 明治5年(1872)刊 2-1
<通俗那波烈翁伝>長沼熊太郎 訳、仮名垣魯文 解 明治6年(1873)刊 2-2
<西洋道中膝栗毛>仮名垣魯文 戯著、歌川芳幾ほか 画 明治3年(1870)刊 2-3
<世界都路>仮名垣魯文 著 明治5年(1872)刊 3-1
<西洋料理通>仮名垣魯文 著、河鍋暁斎 画 明治5年(1872)刊 3-2
<格蘭氏傳倭文賞>仮名垣魯文 和解、小林永濯 画 明治12年(1880)刊 3-3

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展示ケース4

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世界せかい國盡くにづくし』 『西國さいごく立志編りっしへん

 福澤諭吉は元治2[1864]年、外国奉行支配翻訳御用として幕臣に登用された。二年前のヨーロッパ行きを記した「西(さい)(こう)()」を「西洋事情」としてまとめなおす。写本が出まわった。維新政府の参考書となる。『世界國盡』は七五調の読誦しやすい文章で、非常な売れ行きを見せ、「何々づくし」といった類書が流行する。明治5[1872]年布達の小学校教則では、下等小学用の教科書として指定されている。
 サミュエル・スマイルズ『セルフ・ヘルプ』[1867]の翻訳の『西國立志編』は、木版だけで数十万、活版や異版をふくめて百万部以上のベストセラー。しょうへいこうきょうかんだったなかむらまさなおけい)は幕府からの初めての遣英留学生。

春風しゅんぷう情話じょうわ春窓しゅんそう綺話きわ』『花柳かりゅう春話しゅんわ

 『春風情話』は坪内逍(つぼうちしょう)(よう)が、当時教鞭をとっていた学校長の息子で学友の兄だった(たちばな)(けん)(ぞう)名義で出した翻訳。原著はウォルター・スコット『ラマムアの花嫁』[1819]の第一編。
 『春窓綺話』も、元の訳者は坪内逍遙、たかなえあまためゆきである。原著はスコットの物語詩『湖上の美人』[1810]。明治13[1880]年に分担して翻訳、『春江奇縁』という題で書肆に売り込み、二十円を得た。
 『花柳春話』原著はエドワード・ブルワー=リットン『アーネスト・マルトラヴァース』[1837]とその続編『アリス』[1838]。逍遙によれば「(『花柳春話』が)大当たりを博して以来、西洋小説の訳といへば、いつも『春』とか、『花』とか、『情話』とかいふ風の外題を附けねば歓迎されない、と出版書肆がきめてしまつてゐた」という。

【『()(ゆうの)()()(なご)(りの)(きれ)(あぢ)

 『自由太刀餘波鋭鋒』原著はウィリアム・シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』(製作年1599)。紀元前44年頃を舞台とするローマ劇。逍遙は「処女訳ではなかつたが、公然と名を(あらわ)したものを世に出したのは『自由太刀』((しい)(ざる)()(だん))が初め」と回憶する。
 明治34[1901]年になって、別名『該撒奇談』にて東京明治座で、ようほう一座によって初演された。同年、大阪かどふく一座でも上演されている。両者とも、同作中のローマ広場での演説の場面のみである。同年、ほしとおる暗殺事件があり、そのあてこみで上演されたといわれる。
 大正2[1913]年、逍遙は『ジュリヤス・シーザー』と訳し直し、出版している。

<頭書大全 世界國盡>福澤諭吉 訳述 明治2年(1869)刊 4-1
<西國立志編 原名自助論>Samuel Smiles 原著、中村正直 訳 明治3・4年(1870・1)刊 4-2
<歐州奇事 花柳春話 >Edward Bulwer - Lytton 原著、丹羽純一郎訳 明治11・12年(1878・9)刊 4-3
<春風情話>Sir Walter Scott 原著、橘顕三 訳述 明治13年(1880)刊 4-4
<泰西活劇 春窓綺話>Sir Walter Scott 原著、服部誠一 纂述 明治17年(1884)刊 4-5
<該撤奇談 自由太刀餘波鋭鋒>William Shakespeare 原著、坪内逍遙 訳 明治16年(1883)刊 4-6

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問い合わせ先

国文学研究資料館企画広報係
TEL:050-5533-2910 FAX:042-526-8606
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