眞山青果旧蔵資料展-その人、その仕事-
通常展示の一部のスペースを使って、星槎[せいさ]グループ・星槎ラボラトリー所蔵の眞山青果[まやませいか]に関する資料を展示いたします。
会期:平成28年12月1日(木)~12月17日(土)
平成29年1月16日(月)~1月24日(火)
休室日:日曜日・祝日、展示室整備日(12月14日)
※平成28年度からは土曜日も開室しています。
国文学研究資料館では、創設間もない昭和51年(1976)、「真山青果文庫」所蔵の古典籍426点の文献資料調査およびマイクロフィルム撮影による148点(書誌点数155点)の収集を行いました。当時、前進座で管理されていた眞山青果旧蔵資料は、翌52年に新制作座が竣工した「眞山青果記念館」に返還され、青果の長女眞山美保[みほ]が主宰する劇団・新制作座の所属に帰しました。その後、平成22年(2010)に縁あって星槎グループ・星槎ラボラトリーの所蔵となり、さらなるご縁で、平成25年(2013)、近代文献を含む調査を当館が再開することとなりました。
その数50,000冊とも伝えられた眞山青果(明治11年~昭和23年)の蔵書。加えて、青果の広範な仕事と交友関係を裏づける厖大な原稿・メモ類。―震災や戦火等を免れて、星槎グループ・星槎ラボラトリーに収蔵された資料9,000冊余を改めて繙き、新たに拓いていくことが、眞山青果という知の巨人の光と闇をともに照射する端緒になると考えています。
星槎グループの理念の一つに「知繋[ちけい](人を知り、つながる)」があるそうです。今回の展示は、眞山青果の〈人〉〈集書〉〈研究〉〈交友〉をテーマとして、彼が、いかに人と繋がり、その知識を過去から現在へとどのように繋げ開示してくれているかについて、青果旧蔵資料によりつつ辿ろうとするものです。
展示ケース1
<青果、その人>
眞山青果(本名彬[あきら])は、明治11年(1878)宮城県仙台市に生まれました。名門、旧制第二高等学校に進学し、親のすすめで医学の道を志したこともありました。明治40年頃、自然主義小説家として一躍脚光を浴びますが、著作上の事件をきっかけに、演劇界へと転向します。彼は史劇を得意とし、舞台設定の為に調査を重ね、古地図や古書等を渉猟吟味[しょうりょうぎんみ]し尽くす研究家でもありました。これは後に西鶴研究者であるという自負につながっていきます。登場人物の中に青果自身の姿を投影した作品を多く手掛けましたが、昭和23年(1948)、疎開先の沼津で69歳の生涯を閉じました。
本セクションでは、青果遺愛の品々を中心に展観し、その人物と生涯を偲びます。
展示ケース2
<青果、その集書>
眞山青果は江戸時代研究に多方面から取り組み、資料の収集も多岐に渡っていました。その古書収集において特筆すべきことは、西鶴本のコレクションの充実と、地誌・絵図類の収集の徹底ぶりです。
西鶴本では『好色一代男[こうしょくいちだいおとこ]』『世間胸算用[せけんむねざんよう]』など10種類の作品の版本[はんぽん]を持っていました。今回はこれらのうち、『国書総目録[こくしょそうもくろく]』や『近世文学資料類従 西鶴編』の「書誌解題[しょしかいだい]」に未掲載の3作品を展示します。
展示ケース3
<青果、その研究>
眞山青果は「僕の本業は西鶴研究だ」と知人に語るほど、井原西鶴作品の収集と研究注釈を自らのライフ・ワークとしていました。その調査研究は晩年にまで及んでいます。青果による西鶴作品の注解は、語例を精査し、社会経済史や法制史の知見が踏まえられた画期的なものでした。さらに彼は、『忠臣蔵』地誌、東海道絵図、江戸地理、曲亭馬琴[きょくていばきん]の伝記、仙台方言など、多岐に渡る分野を研究対象としていました。今回の展示は、それらの諸研究のうち、青果が最も力を注いだ西鶴研究に焦点をあて、『一目玉鉾[ひとめだまぼこ]』(西鶴作の旅行案内書)に、記載された大名の調査ノートや『日本永代蔵[にほんえいたいぐら]』の注釈ノート等を展覧します。
展示ケース4
<青果、その交友>
眞山青果の生涯を、その業績を中心にして考えるならば、無名時代に続いての小説家時代、劇作家時代に2大別されますが、その2つの時代に並行して、研究者として活躍していることも見逃すことができません。小説家、劇作家、研究者の3つの顔に付随しての知人、友人は多彩なものがあり、近代日本の歩みの一端を垣間見せてくれるものとなっています。
※詳細はリーフレットをご覧ください。
関連企画として, 「近代書誌・近代画像データベース」にて、web展示 「精選・眞山青果旧蔵資料展」を展開しています。(展示期間限定)