松代藩・真田家のアーカイブズ
通常展示の一部のスペースを使って、当館所蔵の作品を展示いたします。
会期:平成28年7月14日(木)~平成28年9月13日(火)
休室日:日曜日・祝日、展示室整備日
※平成28年度からは土曜日も開室します。
NHK大河ドラマ「真田丸[さなだまる]」で知られる戦国の雄[ゆう]「真田家」。当館には真田昌幸[まさゆき]の長男で信繁[のぶしげ](幸村[ゆきむら])の兄にあたる信之[のぶゆき]が初代藩主となった松代[まつしろ]藩の文書である「信濃国[しなののくに]松代真田家文書」が所蔵されています。真田家文書は、当館が収蔵する歴史アーカイブズの中でも大規模なものの一つで、目録収録数で約5万2000件にも及ぶ文書群です。さらに、平成元年(1989)に真田家から寄託された約3500件の文書も保管しています。今回の特設展示では、1「昌幸・信繁(幸村)・大坂の陣」、2「松代藩初代藩主 真田信之」、3「松代藩の日記類」、4「幕末期の松代藩」という4つのコーナーを設けて、これらの一部をご紹介します。戦国武将から近世大名へと生き残っていった真田家の姿を、アーカイブズを通して見てみましょう。
※1・2の部分の構成・解説に関しては、当館特定研究員の丸島和洋氏の協力を得ました。
展示ケース1(7月14日~8月30日)
展示ケース1(9月1日~9月13日)
<武田勝頼書状[たけだかつよりしょじょう](8月30日まで展示)>1-1
5月12日 包紙2・竪紙1通 信濃国松代真田家文書(26A)は13
当館所蔵の真田家文書〔さなだけもんじょ〕のうち、唯一の戦国期の原文書である。もともと真田家に伝来したのではなく、堤清十郎[つつみせいじゅうろう]という人物が明治8年(1875)11月に真田家へ献上[けんじよう]したもので、翌年12月に松代から東京の真田邸へと回送されたことが包紙〔ほうし〕より判明する。内容は、武田勝頼が宿老[しゅくろう]の真田安房守[あわのかみ](昌幸)・山県三郎[やまがたさぶろう]右兵衛尉[うひようえのじよう](昌満[まさみつ])・小山田[おやまだ]備中守[びっちゆうのかみ](昌成[まさゆき])・内藤[ないとう]大和守[やまとのかみ](昌月[まさあき])・春日弾正忠[かすがだんじようのじょう](信達[のぶたつ])に対して城の普請[ふしん]を督促[とくそく]したもので、作成年代は天正[てんしよう]8年(1580)または翌9年と推定されるが、8年ならば築城対象が沼津[ぬまづ](三枚橋[さんまいばし])城(静岡県沼津市)、9年ならば新府[しんぷ]城(山梨県韮崎市〔にらさきし〕)となり確定しがたい。
<大坂濫妨人之帳[おおさからんぼうにんのちょう](8月30日まで展示)>1-2
慶長20年 堅帳1冊 阿波国徳島蜂須賀家文書(27A-1)705
慶長20年(1615)の大坂の夏の陣によって豊臣家は滅亡し、真田信繁(幸村)らの名将[めいしょう]は討死[うちじに]した。そして、戦争は関係のない多くの人々に大きな傷を残す。『大坂濫妨人之帳』は戦場における人身略奪[りゃくだつ]を示す史料だ。「濫妨人」とは「乱取[らんど]り」と称[しょう]される人身略奪された人々のことであり、『大坂濫妨人之帳』は阿波藩[あわはん]蜂須賀家[はちすかけ]が「乱取り」した人々の名簿[めいぼ]である。その中に真田信繁に仕えていた紀州[きしゅう](現在の和歌山県)生まれの「さうり取(草履取[ぞうりとり])」が記されている。
<慶長十九年大坂冬之御陣図[けいちょうじゅうくねんおおさかふゆのごじんず](9月1日より展示)>1-3
天保11年写 1鋪 武蔵国多摩郡連光寺村富沢家文書(30J)853
武蔵国多摩郡[むさしのくにたまぐん]連光寺村[れんこうじむら](多摩市)名主の富沢家に伝わった大坂冬の陣の陣形図[じんけいず]で、寛政5年(1793)6月に中村柳翁[りゅうおう]が描いた図を、天保11年(1840)6月に「玉南処士昌徳[ぎょくなんしょしまさのり]」という人物が書き写したもの。図の東側の玉造口[たまつくりぐち]の近くに「真田出丸[さなだでまる]」が描かれ、「真田左衛門佐[さえもんのすけ]」「子息大助[しそくだいすけ]」「伊木七郎右衛門[いきしちろううえもん]」の名が記されている。なお、一般に流布する大坂の陣に関する絵図では、いずれも真田信繁の出丸は円形に描かれているが、近年、大坂城から離れた位置に築かれた曲輪[くるわ]であったとの説が出され、当館所蔵の陸奥[むつ]国弘前[ひろさき]蜂須賀[はちすか]家文書「摂州大坂城図[せっしゅうおおさかじようず]」(22B/2171)でも、長方形の「出丸」が描かれている。
<難波戦記[なにわせんき]>1-4
寛文12年頃成立 大本5冊 鵜飼 96-162-1~5
「真田幸村」の名で知られる真田昌幸の次男信繁は、幼名[ようみょう]を弁丸[べんまる]、元服[げんぷく]後は源次郎[げんじろう]信繁、従五位下[じゅごいのげ]左衛門佐[さえもんのすけ]に任官[にんかん]し、高野[こうや]山麓の九度山[くどやま]で入道号[にゅうどうごう]好白[こうはく]と称した。実名は「信繁」が正しく、「幸村」は江戸時代に入ってからの創作で、現在では寛文[かんぶん]12年(1672)頃の成立といわれる『難波戦記』がその初出とされている。『難波戦記』は、京都所司代[きょうとしょしだい]板倉家の門客[もんかく]であった万年頼方[まんねんよりかた]と下野[しもつけ]国壬生[みぶ]藩主阿部忠秋[あべただあき]の家臣二階堂行憲[にかいどうゆきのり]の手による軍記物語で、展示した「巽[たつみ]ノ方出丸[でまる]ハ真田左衛門幸村[さなださえもんゆきむら]」という記述のほか、多くの箇所で真田信繁のことを「幸村」と明記している。
<覚書[おぼえがき](一門歴代名書[いちもんれきだいめいしょ])>1-5
江戸時代 横半帳1冊 信濃国松代真田家真田家文書(26A) え674
真田信繁の名が『難波戦記』をはじめとする軍記物や講談・絵本などの影響で広く「幸村」として知られるようになったため、兄の真田信之を藩祖[はんそ]とする江戸時代の松代藩でも、信繁の名をめぐって混乱が生じており、初名[しょみょう]を信繁、改名後の諱[いみな]を幸村と解釈したものもあったといわれる。真田幸隆[ゆきたか]から信之に至る真田家歴代および庶流[しょりゅう]・一門[いちもん]の当主名とそれぞれの子女の名前を列挙した「覚書」も、こうした事例の一つである。この資料の「真田安房守昌幸」の子女の項には「真田左衛門佐[さえもんのすけ]」の名があり、その直下には「行(幸)村」、横には「信賀」とあって「シケ」という読み仮名[がな]を付している。なお、信繁の名は誤読)されることが多く、「信乃」「信妙」「信為」などと書かれることもあった。
展示ケース2
<真田信之[のぶゆき]書状>2-1
(寛永15年)2月5日 折紙1通 寄託真田家文書763
寛永[かんえい]15年(1638)2月5日に家臣である小野采女[うねめ]ら4名に対して出された初代藩主・真田信之の書状である。松代城内の火の用心に念を入れるよう命じるとともに、島原の乱において諸大名が軍勢を出すので間もなく落ち着くだろうと述べている。実際、幕府方の総攻撃によって2月28日に天草四郎率いる一揆勢が壊滅し、島原の乱は終結した。なお、文書は折紙[おりがみ]という形態で書かれている。これは紙を真ん中で折り、それぞれの面に文字を記すため、全紙にすると、文字の向きが上下反対になる。
<真田信澄書状[さなだのぶずみしょじょう]>2-2
(万治元年)10月14日 真田信澄 折紙1通 寄託真田家文書766
沼田藩主真田信澄(信之の孫、のち信直[のぶなお]と改名、「信利[のぶとし]」の名で知られるが誤り)が、当時病床[びょうしょう]に伏していた信之(一当斎[いっとうさい])の側近[そっきん]玉川左門[たまがわさもん]へ宛てた見舞状である。信之の容態[ようだい]を尋ねるとともに、鮎鮨[あゆずし]1桶[おけ]を進上している。この3日後の万治[まんじ]元年(1658)10月17日、信之は93歳で没した。信之のもともとの嫡男[ちゃくなん]であった信吉[のぶよし]の子の信澄は、同年2月に死去した松代藩2代藩主信政「のぶまさ](信之の次男)の後継をめぐって、信政の末子幸道[ゆきみち]の後見となった信之と対立していたといわれるが、この書状からは高齢で病に倒れた祖父を心配している様子がうかがわれて興味深い。
<大坂御陣就御尋(おおさかごじんおたずねにつき)家中僉議之書付承伝之覚(かちゅうせんぎのかきつけしょうでんのおぼえ)>2-3
(安政3~5年ヵ) 横帳1冊 寄託真田家文書660
松代藩が、家中[かちゅう]の番士[ばんし]たちに対して大坂の陣に関する文書や伝承[でんしょう]の有無について尋ねたときの内容を記したもので、とりまとめをした祢津神平[ねづしんぺい]・河原舎人[かわはらとねり]・小幡長左衛門[おばたちょうざえもん]・原半兵衛[はらはんべえ]の4名が差し出した書面を列挙[れっきょ]している。4名の役職就任や改名[かいめい]時期などから、作成年次[ねんじ]は安政(あんせい)3~5年(1856~58)前後と推定される。展示箇所は、原半兵衛が大坂の陣の絵図の記載をもとに考察した部分で、絵図中に真田信之の名が見られないこと、このときには「御陣代[ごじんだい]」が立てられていたとする説があることを指摘している。
展示ケース3
<日記(にっき)>3-1
元禄14年正月1日~5月17日 竪帳1冊 信濃国松代真田家文書(26A)い690
当館所蔵の真田家文書は、松代藩庁[まつしろはんちょう]における政策実務に関わる文書が多数を占め、特に各役所で作成された日記類が充実している。ただし、同じ「日記」というタイトルであっても、役所内で日常的に記録されたものと、後年に編纂[へんさん]されたものがある点は注意が必要である。この日記は後者の代表例で「御国[おくに]日記」と呼ばれ、国許[くにもと]での日々の藩主周辺の動きと主な政事向きの出来事が記載されている。在府[ざいふ]中の同様の日記である「江戸日記」と並んで、松代藩にとっては最も重要な日記形式の編纂記録であったと考えられる。
<日記御国[にっきおくに]>3-2
享保17年6月28日~12月29日 竪帳1冊 信濃国松代真田家文書(26A)い739
松代藩で最も重要な記録の一つであった「御国日記[おくににっき」は、明治4年(1871)の廃藩置県[はいはんちけん]で松代城が明治政府へ引き渡される際、旧家老御用部屋[きゅうかろうごようべや](御政事所[ごせいじじょ])の執務[しつむ)]記とともに、城中にあった「御日記御土蔵[おにっきおどそう]」から真田家の菩提[ぼだい]寺である長国寺[ちょうこくじ]へと移送された。しかし、翌5年5月に発生した長国寺の火災によって、これらはすべて灰燼[かいじん]に帰したといわれる。現在、ほぼ完全な形で残っている「御国日記」は3冊ほどであり、いずれも歴代にわたって家老職を務めた望月家[もちづきけ]によって転写[てんしゃ]され、のちに真田家へ提出されたものと推定される。今回展示した元禄[げんろく]14年「日記」と享保[きょうほ]17年「日記 御国」は、在りし日の松代藩の「御国日記」の姿を伝える稀少(きしょう)なものである。
<御在所日記[ございしょにっき]>3-3
天明4年正月1日~12月29日 望月行晃 竪帳1冊 信濃国松代真田家文書(26A)い789
松代藩で家老職を務めた望月行晃[ゆきあき]が作成・編纂した日記である。行晃は、6代藩主の真田幸弘[ゆきひろ]に才知[さいち]・識見[しきけん]を認められ、宝暦5年(1755)に24歳で家老見習[みならい]に就任、同7年には家老となった。松代藩の家老は、御用番[ごようばん](月番[つきばん])を勤めるごとに自身の手控[てびか]えである「日記 扣[ひかえ]」を作成・編綴[へんてつ]し、御用部屋[ごようべや]に設置された公務日記である「置附[おきつけ]日記」に必要な記事を転写した(展示部分には、転写したことを示す「置附写済[おくつけうつしすみ]」という記載がある)。しかし、用務の増加につれて手控えだけでは情報が不足したため、他の家老が御用番のときの日記を転写し、手控えとともにファイリングして、年間を通覧できる分厚い日記を仕立てあげた。
<日記中[にっきちゅう](御側御納戸[おそばおなんど])>3-4
天保12年5月~8月 竪帳1冊 信濃国松代真田家文書(26A)い293
御側御納戸役[おそばおなんどやく]は、奥坊主衆[おくぼうずしゅう]や御茶道[おさどう]・御仕立物師[おしたてものし]・御次小姓[おつぎこしょう]などを配下に持ち、「殿様[とのさま]」(藩主[はんしゅ])・「大殿様[おおとのさま]」(前藩主 [ぜんはんしゅ])・「若殿様[わかとのさま]」(世子[せいし])らに近侍[きんじ]して、日々の行動を補佐(ほさ)する役職であった。御側御納戸日記は、それぞれ担当する人物を単位に編綴[へんてつ]されており、「殿様」の日記を見てみると、毎日の藩主の起床から始まり、夜詰[よづ]めの役人が退出するまでの間の出来事を順次列挙する形式をとる。内容は、江戸城への登城[とじょう]、御用席[ごようせき]への出座[しゅつざ]、家老らとの対面、家臣への謁見[えっけん]、政務書類への署名、音信や進物の授受、寺社への代参[だいさん]など多岐にわたっている。展示箇所は、天保[てんぽう]12年(1841)6月13日、8代藩主真田幸貫[ゆきつら]が幕府老中に就任した日の記事である。
<御日記[おにっき](御裕筆間[ごゆうひつま])>3-5
文化9年 竪帳1冊 信濃国松代真田家文書(26A)い425
赤坂溜池(東京都港区)の上屋[(かみやしき]に居住していた7代藩主真田幸専[ゆきたか]の正室[せいしつ]真珠院[しんじゅいん]付きの奥役人が記した日記と推測される。内容は、「殿様」(幸専)・「大殿様」(幸弘[ゆきひろ])をはじめ親戚筋・大名家などとの音信・進物のやり取り、奥向きで行われた行事、奥女中の動向など多岐にわたる。展示箇所は、文化9年(1812)6月15日の記事で、上屋敷の近くにある氷川明神社([ひかわみょうじんしゃ]で祭礼が行われた日の様子を記録した部分。慶事であるとして赤飯が炊かれ、二重[にじゅう]を麻布南部坂の下屋敷[しもやしき]へ送り、一重[いちじゅう]を幸専のもとへ進上したとある。真珠院の分の一重は、小重[こじゅう]に分けて奥女中の「きた」と「のと」の2名に下賜[かし]され、奥向きの者一同へも赤飯が振る舞われている。
<御在城中日記[ございじょうちゅうにっき](御料理所[おりょうりどころ]>3-6
嘉永7~安政2年 横帳1冊 信濃国松代真田家文書(26A)い1650
藩主の日常の食事を担ったのが「御料理所」という役所である。『御在城中日記』は料理人が主に藩主の日々の献立[こんだて]を記した日記である。時の藩主・真田幸教[ゆきのり]が江戸より国許[くにもと]に戻った嘉永7年(1854)6月から安政2年(1855)5月まで記されている。真田家文書の数ある日記類の中で御料理所の日記はこの1冊のみであり、藩主の食事がわかる資料として貴重といえよう。展示しているのは嘉永7年閏7月5日条で、「ぶどう酒」「砂糖泡盛[さとうあわもり]」などを江戸本町2丁目(現在の日本橋本町)の松屋広瀬忠兵衛[まつやひろせちゅうべえ]から購入している。
展示ケース4
<信州地震之図[しんしゅうじしんのず]>4-1
弘化4年3月24日 1鋪 信濃国松代真田家文書(26A)け690
弘化4年(1847)3月24日、信濃国[しなののくに]善光寺[ぜんこうじ]を震源とする推定マグニチュード7.4の大地震が発生した。いわゆる善光寺地震である。善光寺の門前町[もんぜんまち]では、建物の崩壊と類焼によって無残な姿となってしまった。善光寺の本堂は類焼を免れたが山門[さんもん]・如来堂[にょらいどう]などの焼失、灯籠[とうろう]の倒壊などで復旧に長い時間を要することとなった。松代藩内では大小4万ヵ所を超える山崩れが発生し、川を堰[せ]き止めたことによって大洪水に見舞われた地域もあった。この瓦版[かわらばん]は他の瓦版・書付とともに袋に一括されて真田家文書に収められたものであり、被害の様子がうかがえる。
<真田幸教[ゆきのり]直書[じきしょ](佐久間象山[さくましょうざん]を朝廷召し出しの儀)>4-2
文久3年9月7日 堅継紙1通 信濃国松代真田家文書938・938-1
兵学者として著名であり、勝海舟[かつかいしゅう]・吉田松陰[よしだしょういん]・坂本龍馬[さかもとりょうま]の師匠[ししょう]であった佐久間象山は松代藩士[はんし]であった。その名声は京都の朝廷まで轟[とどろ]き、幕末の動乱の最中、朝廷に召し抱えられることとなった。この史料は、武家伝奏[ぶけてんそう]の公家・飛鳥井雅典[あすかいまさのり]より「佐久間象山に朝廷での御用も務めてもらいたい」との要望を受けて、藩主・真田幸教が送った文久3年(1863)9月7日の書状。幸教は象山について「学術・才略はあるが人となりに不安があるので、そのまま召し抱えてもらいたい」と記している。なお、文中の「統」の字の最後の一画が書かれていないが、これは在位中の孝明天皇の諱[いみな]が「統仁[おさひと]」であるため、字を憚[はばか]って一画記さない欠画[けっかく]という書き方である。
<金井精蔵錦袖御印[かないせいぞうにしきのそでおしるし]>4-3
3点 信濃国松代真田家文書(26A)す96-2
新政府と旧幕府による戦争、戊辰[ぼしん]戦争は松代藩にも大きな影響を及ぼした。新政府軍の求めに応じた松代藩は甲府までの先鋒[せんぽう]を務め、飯山[いいやま](現在の長野県飯山市)をめぐる旧幕府歩兵頭[ほへいがしら]・古屋作左衛門[ふるやさくざえもん]率いる衝鋒隊[しょうほうたい]との戦いでは尾張藩とともにこれを退けた。閏[うるう]4月15日には新政府軍の証でもある「金襴御印[きんらんおしるし]」が各兵士に下賜された。この資料は松代藩兵のひとり、金井精蔵のものである。松代藩は信州諸藩の中でも最も多くの戦費を投じ、長岡・会津へと転戦することとなった。
<戊辰戦争戦死者・重傷者書上[かきあげ]>4-4
(明治初年) 1綴 信濃国松代真田家文書(26A)け1796
戦争には領民もいや応なしに徴用され、時には生まれ故郷から遠く離れた地で命を落とすこともあった。この資料は藩内の戦死者・重傷者の書上である。冒頭の長井村[ながいむら](現在の長野市内)の政吉は「大銃方弾薬運夫[おおじゅうかただんやくはこびふ]」という人足に徴用されたが、閏[うるう]4月25日の衝鋒隊との激戦である雪峠[ゆきとうげ]の戦いで銃弾に斃[たお]れた。戊辰戦争において松代藩では藩士42名、徴用された領民10名の命が失われた。明治2年(1869)、政吉をはじめとした戦死者は松代妻女山[さいじょさん]招魂社[しょうこんしゃ]に祀られ、戦争のない世と平和を願っている。