生巧館[せいこうかん]木口[こぐち]木版作品群
通常展示の一部のスペースを使って、当館所蔵の生巧館木口木版作品を展示いたします。
会期:平成27年11月5日(木)~11月20日(金)、12月7日(月)~平成28年1月13日(水)
※11月21日(土)、22日(日)は特別開室し、11月23日(月)から12月6日(日)は、展示室整備のため休室します。
本作品群のいくつかに「生巧館刀」と見えます。生巧館とは、フランスで学んだ技術を持ち帰った合田清[ごうだきよし]が、洋画家である山本芳翠[ほうすい]とともに、1887(明治20)年に設立し た木口木版製作所兼画学校のことです。
生巧館による木版印刷は、近代印刷技術の幕開けを告げました。日本では、浮世絵に代表されるように、木を縦方向に切った面を用いる、板目[いため]木版が一般的でした。生巧館による木口木版は、切り株状に切った堅い版木を用い、精巧な彫版を可能にしたのです。
木口木版は、活版に組み込んで文字と同時に印刷できるため、書籍の挿絵として18世紀からヨーロッパで発展してきました。
本作品群は、出版文化史上・美術史上、貴重な資料です。校正刷と清刷とが混じり、画家の下絵が出版物の表紙・口絵・挿絵になる工程を垣間見ることができます。
展示ケース1
<「議員椅子」図>
「帝国議会仮議院全図」中の「議員椅子」図です。1890(明治23)年、国会が開設されることになりました。仮議事堂が、ドイツ人建築家アドルフ・ステヒミューラーと臨時建築局技師吉井茂則の設計によって、第1回帝国議会招集日前日の1890年11月24日にようやく竣工されました。しかしながら、国会会期中の1891(明治24)年1月20日、漏電による火災で、仮議事堂は全焼しました。設計図が2 0 0 4 年まで発見されていなかったため、1889(明治22)年1月に新聞に発表された仮議院全図は全貌を知ることのできる貴重な資料でした。「生功館彫刻」によって当時の機運が彷彿と伝わってきます。
<「大垣本町之惨状」図>
藤島武二・画。合田清・彫。1891(明治24)年10月28日、岐阜・愛知両県を中心に明治年間最大の地震がありました。マグニチュード8.0、死者7273人だったと記録されています 本図は、翌月『東京朝日新聞』附録に載った「濃尾震災惨状真図」中の一つです。
<露国皇太子ニコライ殿下御肖像・希臘親王ジョーヂ殿下御肖像>
大津事件で衆目を集めた海外王族の肖像です。後にラストエンペラーとなったロシア帝国皇太子ニコライは、来日中の1891(明治24)年5月11日、滋賀県大津で警衛の巡査津田三蔵に斬りかかられ、負傷しました。ギリシア・デンマーク王子ジョーヂ(ゲオルギオス)は、ニコライの従弟にあたり、同行しており、ニコライを救助しました。5月14日には明治天皇自ら出向いて見舞い、事が収まったと言われます。
<『家庭雑誌』表紙>
和田三造・画と思われます。1896(明治29)年、合田清・山本芳翠と、黒田清輝・久米桂一郎とが中心になって、洋画団体「白馬会」が設立されました。和田三造は1899(明治32)年から黒田清輝邸住み込み書生となり、白馬会に入所し、黒田に師事しています。
展示ケース2
展示ケース3
<『太陽』表紙>
佐久間文吾・画。明治20年代から30年代にかけて、生功館の精緻な図版は出版界を席捲します。有名雑誌の表紙がつぎつぎと「生巧館刀」で彩られました。その時々の特集や目玉を入れられるスペースが空いています。一時期ずつ同じ表紙絵によって意匠を統一し、読者を惹きつけました。
<『文藝界』創刊号 表紙試し刷り>
黒田清輝・画。山本芳翠による生巧館画塾は、1894(明治27)年10月、あらたに帰朝した黒田清輝・久米桂一郎に譲り渡されました。木口木版製作所はそのまま残り、連携します。このころから黒田による下絵が増えました。実際に刊行された雑誌表紙と題字などが異なります。当資料からさらに校正されたのでしょう。
展示ケース4
<エミール・アダン「一日の終わり」版刻>
エミール・アダン・画。合田清・彫。フランスで西洋木版の職工となっていた合田清は、1886(明治19)年、エミール・アダンの絵画「一日の終わり」を木口木版に彫刻し、フランス美術家協会のサロンで入選を果たしました。翌年帰国にあたり、それを電気銅板にして持ち帰ったそうです。木刻し直されたこの作品は、生巧館の広告や教材として使われました。
<『理科入門 有用之動植物』口絵>
五姓田芳柳[ごせだほうりゅう]・画。設立されたばかりの生巧館に最初に入った仕事は、文部省からでした。『高等小学読本』です。以後、教科書関係の図版を多く受注するようになりました。この口絵には「H.Goseda」とのサインが見られ、原画を五姓田芳柳が描いたことが分かります。清刷です。
<高橋雄峯訳『ロビンソンクルーソー絶島漂流記』口絵>
西洋小説日本語翻訳は黒田麹廬[きくろ]によるダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』訳から始まりました。1851(嘉永4) 年の写本が残っています。出版されたのは1872(明治5)年のことで、齋藤了庵という訳者名になっていました。また、江戸時代に公刊された唯一の西洋小説の訳書として、1857(安政4)年に上梓された、横山由淸[よしきよ](保三)訳『魯敏遜漂行紀略』が知られます。本書はそのような人気を受け継いでの出版でした。清刷です。当館蔵書15版の図と比べてください。