大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

2025/6/23

伊豆七島絵巻ー神津島 おんばせ 海獺の図ー

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江戸幕府の代官羽倉外記用九(はくらげきもろちか)(号は簡堂(かんどう))は、天保9年(1838)3月から6月にかけて、自身の支配管轄である伊豆諸島の巡察を行いました。当時頻発していた異国船の来航に対する防備の一環として、島々の人たちに銃器の使用法などを修練させ、異国船打ち払いの実効をあげようと計画したのです。このときの巡察に同行したのが、幕府右筆(ゆうひつ)長谷川善次郎の息子で渡辺華山門下の画工長谷川晋吉(しんきち)(号は寿山(じゅざん))でした。晋吉は、羽倉に命じられて島々の風景や地元の生業の様子などを描き、それを『廻島画稿(かいとうがこう)』と呼ばれる冊子にまとめたようです。その後、晋吉は天保12年、巡察時に描いた17枚の絵を浄書して『伊豆七島図絵』(東京都立中央図書館所蔵)と称する絵巻物にし、弘化2年(1845)には、さらに5枚の絵を加えて『伊豆七島絵巻』(国文学研究資料館所蔵「祭魚洞文庫旧蔵水産史料」23zl/01014)を製作したのではないかと考えられます。なお、『伊豆七島絵巻』の末尾には「鯉淵斎重山恭信(りえんさいじゅうざんやすのぶ)」という落款(らっかん)が捺(お)されていますが、『廻島画稿』と『伊豆七島絵巻』の筆致の類似性を指摘した藤木喜久麿氏は、この点について「寿山と重山は音が似通ってゐる点からも、寿山の改名か変名ではないか」と推測しています。

ここに掲出した「おんばせ 海獺(うみうそ)の図」は『図絵』にはなく『絵巻』のみに載せられた絵で、神津島近くにある恩馳島(おんばせじま)に棲息するアシカ(海獺)を描いたものです。巡察中の羽倉の日記『南汎録(なんばんろく)』の天保9年閏4月25日の記事には、「恩馳島はもっとも大きく、周囲一里余、石の磯があり、アシカが群れ棲んでいる(中略)従者と銃でアシカを打ったところ、洞の口にいた乳のあるアシカが悲しげに叫んで去らないので、それを放すように命じた」(原漢文、金山正好訳)と記されています。

中村一恵氏の研究によると、かつて本州太平洋南岸にはアシカ島と呼ばれる小島や岩礁が存在し、伊豆諸島でも神津島の恩馳をはじめ、大島の泉津・式根島・八丈島などにもアシカ島と呼ばれた場所があり、ニホンアシカが棲息していたことが指摘されています。現在では乱獲などにより絶滅してしまったと考えられているニホンアシカですが、『伊豆七島絵巻』は、当時アシカたちが伊豆の島々で群れをなして暮らしていた事実を伝える貴重な歴史資料といえるかもしれません。

(太田尚宏)

<参考文献>
藤木喜久麿「伊豆七島関係図書解題(二)」(『史苑」第14巻3号、立教大学史学研究室、1942年)
羽倉簡堂著/金山正好校訂・訳『南汎録ー伊豆七島巡見日記』(緑地社、1984年)
中村一恵「伊豆諸島に生息していたニホンアシカについて」(『神奈川県立博物館研究報告(自然科学)』第20号、1991年)


※今回ご紹介した『伊豆七島絵巻』には以下のQRコードからアクセスできます。

文部科学教育通信2025年6月9日掲載記事より

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