大分合同新聞連載
平成27年2月19日(木)夕刊 マレガ・プロジェクト報告4 大津祐司
臼杵市野津町原にある下藤地区キリシタン墓地は、2013年に県史跡に指定され、 注目を集めている。「日本史」を著した宣教師ルイス・フロイスによると、野津に キリスト教が広まったのは1578(天正6)年からで、初期の中心人物は「リアン」であった。
「日本史」の中でリアンは「自宅だけで120名以上の者をかかえ」「邸内に教会を 建て」、さらに「教会の上方にある山の適当な場所に広場を造り、そこに1基の美しい十字架を建て」「その近くにキリシタンを埋葬するため、広く良く整った墓地を造った」と紹介されている。
写真:「豊後国大野郡野津院御検地帳」には地名、地目、等級、面積、石高、貢納責任者名が書かれている。「同人」と書かれているのも理庵であり、田畑を多く所有していることが確認できる。
一方、97(慶長2)年の「豊後国大野郡野津院御検地帳」によると、下藤村の村高(村の公定生産高)は約191石で、屋敷地を持つ者は15人であった。その中に名前が「理庵」と記され、村高の5分の1ほどに当たる36石余りを1人で所有する者がいる。1反8歩(308歩、太閤検地では1歩=約3・65平方m)の屋敷地を持ち、所有する田畑は35反以上に及んだ。
さらに理庵の田畑や屋敷推定地の上方には山があり、そこには下藤地区キリシタン墓地が所在する。またリアンの居住地の対岸に仏教勢力があったというフロイスの記述も下藤地区の景観に合致する。
フロイスが紹介したリアンは、下藤村に居住した理庵であり、下藤地区キリシタン墓地はリアンを中心に営まれていたと考えられる。ただし同村で屋敷地を持つ15軒の信仰状況など不明な点は残る。
マレガ神父収集文書群に多数残されている1635(寛永12)年「きりしたん宗門御改ニ付起請文前書之事」の調査・研究が進めば、禁制の動向とともに近世初頭の起請文を提出した家の構成を確認することができる。
また、同文書群に含まれる類族(キリシタンの子孫)の生死に関する文書には、先祖のことも記されていた。これまでに分かっている宣教師の報告と大分に残る史料の研究に、同文書群の研究が加わることによって、豊後におけるキリスト教の布教から禁教下までのおぼろげな部分が鮮明になっていくと期待される。
(県立先哲史料館主幹研究員、東京大学史料編纂所共同研究員・大津祐司)
※ このページの記事は、大分合同新聞に掲載された記事を元に、研究の進展に応じて修正等が加えられています。記事掲載にあたり、中心となって活動した大分先哲史料館と大分合同新聞からの了解を得て作成されています。肩書はすべて当時。