大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国文学研究資料館

平成26年4月7日(月)朝刊
バチカン通信4 佐藤晃洋

大分合同新聞連載

平成26年4月7日(月)朝刊 バチカン通信4 佐藤晃洋

江戸幕府のキリシタン政策により、キリシタンから改宗した者は「転びキリシタン(本人)」、その子孫は「類族」と呼ばれ、彼らは幕府や藩の監視下に置かれていた。縁組、離別、出家、住所変更、出生、死亡などについて、村役人や檀那寺は役所に届け出をしなければならなかった。
 第1回概要調査で調査対象とした史料群の中には、類族に関する臼杵藩の宗門奉行宛ての文書が多く含まれていた。
 例えばサンプルとして撮影した史料は、於牟連村(臼杵市)の3歳の清八の天然痘による病死について、1728(享保13)年5月16日に臼杵藩の宗門奉行に村が提出した文書である。清八の「高曽祖父(曽祖父の祖父)」が「転びキリシタン」であったため、「類族」として清八の死亡に関して届けを提出しなければならなかった。

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写真:村が藩に提出した類族の死亡届

 村が提出した類族の死亡届には、清八が死亡した事実とともに死骸に特別異常はなかった旨が記されており、村役人である庄屋と弁指、清八の家族が含まれる「五人組」の連署で作成している。
 この文書には、清八の檀那寺である黍野村(同市)の了仁寺の住持が作成した同様の趣旨の文書も添えられていた。類族の死亡に関しては病死であっても、村役人や五人組、檀那寺の住持らによる検視が行われていた。藩の宗門方は、村と檀那寺が作成した文書を、一対の文書として整理・管理していたようである。
 このような臼杵藩を中心とする豊後地域の史料が、マリオ・マレガ神父収集文書の大部分を占めていると考えられる。江戸時代を通して特定の地域のキリシタン政策に関する史料が多数含まれていることから、政策の細かな実施方法などを長期にわたって検証できるとともに、江戸時代の人々の生活をさまざまな視点から掘り起こしていけるだろう。
 地元に残っている古文書などの史料やキリシタン関係の遺跡・遺物とともに研究することにより、江戸時代の大分をより具体的・多角的に見ていくことができると考える。
 2014年度からは、マレガ神父収集文書の概要調査とともに、史料1点ごとの撮影が始まる。このデジタルデータをプロジェクト終了後には公開し活用していけるようにしたいと考えている。そして「マレガ・プロジェクト」が、多くの方々が郷土の歴史や文化に興味・関心を抱くきっかけになればと願っている。

 (大分県立先哲資料館 館長・佐藤晃洋)

※ このページの記事は、大分合同新聞に掲載された記事を元に、研究の進展に応じて修正等が加えられています。記事掲載にあたり、中心となって活動した大分先哲史料館と大分合同新聞からの了解を得て作成されています。肩書はすべて当時。

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