特別対談 ロバート キャンベル館長×有澤知世特任助教
「古典インタプリタ」とは何か?
2020年9月30日(水) 於・国文学研究資料館
ないじぇる芸術共創ラボ立ち上げの際に、古典の世界とクリエーターの世界の橋渡しを行う新しい職能として設立された「古典インタプリタ」。実際には、どのような仕事を担っているのでしょうか。古典インタプリタ設立から3年がたった今、日々の仕事の中で学んだこと、考えたこと、悩んだことを通して、“「古典インタプリタ」とは何か?”について、そして今後の展望について語り合いました。

―目次―
●ないじぇる芸術共創ラボの立ち上げと「古典インタプリタ」新設の意義

ありがとうございます。古典インタプリタの公募が出た当時、アートの分野の方と協働する新しい仕事だというふうに理解をして、そのお手伝いがしたいということで応募をしたわけですけれども、そのとき考えていなかったことの一つに、プロジェクトのシステムを充実させてゆくという仕事がありました。
何をどのようにして機能させれば、プロジェクトが目指していることが分かりやすくなるのかを意識しましたし、ないじぇるのミッションと、館全体のミッションとをどのようにして摺り合わせ、プロジェクトの成果を、アカデミックな業界、そしてもっと広い社会に還元するにはどうすればよいだろうかということを考える必要がありました。
ないじぇるの最も大きなミッションは、アーティスト・翻訳家と研究者による共創の場を作り、その過程を見守ってゆくということだと思いますけれども、それだけを行っていても、それを国文研のような機関で実施するということの意味を、私たち自身が十分に掘り下げることができなかったかもしれないなと思います。
●外部に協力を仰ぐこと

「ないじぇる芸術共創ラボ」は当初から外部資金に頼って立ち上げていました4。お金をいただくということは、社会からそれ自体が評価、あるいは期待値を置かれているということでもあるので、あえてそこは、できるだけ広く社会、場合によっては政府や自治体の予算などからも資金を提供していただき、それをきちんと見届けていただけるようにするということが重要だと思うんですね。
現在の日本の文教政策が向かおうとしている方向に対して課題設定をするときに、自分の目の前の木々だけではなくて、大きな森を見渡すような視野を持たなければならないと思います。それを身に付ける上で何か驚いたこととか、困惑したこととか、得たことって何かありますか。
ここへ来てから、文化事業が向かおうとしている大きな流れを意識するようになりました。今、社会から求められていることを肌感として感じなければ、外部資金獲得や、そのお金を使った成果発信をしていく、そして国文研として差別化を行っていくということはできなかったと思いますので、大変勉強になりました。
また外部資金獲得に際して、外部の有識者の方々、特に一般企業の方々のご協力を仰ぐ場面が多くありましたが、みなさん、「世界がこのように動いてゆくから今このようにすべきだ」という、十年後、二十年後を見据えた大きなビジョンを持って行動しておられ、このコロナ禍に対しても大変早い反応をしておられます。広い視野を持ち、自分の仕事の意義や方法を見直すという姿勢は、本当に様々な分野の方から教わりました。
それは今後、日本文学の分野の中で、学会にせよ、あるいはこれから所属する神戸大学の教室や学内行政に、ぜひその観点を生かしていただきたいなというふうに思います。この業界に、最も欠けている部分の一つだからですね。
●「古典インタプリタ日誌」にすべてを記録すること

私は、特に最初の方はずっと伴走していて、プロジェクトがどういうふうに立ち上がっていくかということを見ていました。
一つ非常に興味深いなと思ったのは、とにかくひたすら記録すること。
あなたは本当に記録好きですね(笑)。写真は撮り、音源も取って、そしてそれを後で整理をして、「古典インタプリタ日誌」5というものを作っていくと。
実際に起きたことの記録が整理され、そして本当に間髪入れずにそれを公開していくということは、私にとっては非常に愉快な風景でしたけれど、どのような思いから「古典インタプリタ日誌」を書いていましたか。
ないじぇるではいつも様々なワークショップを行っていますが、重要視しているのが、クリエーターと研究者による協働の過程で、どのような化学反応が起るのかを観察してゆくことです。まさに「ラボ」ですね。
過程、つまり「研究者とクリエーターがこんな資料を見ながらこんな面白いことを考えていますよ」ということを分かりやすくお伝えするためにイベントがあり、いらしていただいたお客様から直接フィードバックをいただく場としても重要視しているのですが、ワークショップで交わされているフレッシュな議論すべてを、イベントでお伝えすることはできません。ただ、それは私一人が独占しておくにはあまりにも貴重なことに思えましたので、ラボの中で起っていることをなるべくフラットに綴ってゆくことで、様々な関心を持った方がこのプロジェクトから何かを見出してくださるきっかけといいますか、引っ掛かりをたくさんつくってゆくことを目指しました。
今後ますます、特に人文科学の中では、記録をし、データ化していって共有し、駆動していくことによって、社会に寄与するということが基本になってゆくと思います。
一方では記録することの難しさがあります。特に人文学のような分野で扱う質的なものは、重さや湿度などとは違い、数値として計り、利活用することが難しい。
民族学では記録に対して「記憶」のことはよくいわれますけれども、さまざまな瞬間に人々が出会って交わす言葉であったり、所作であったり、技術であったりということは、捉えにくく抜け落ちていってしまうのですね。
ですから、そういった語り得ないことをも語り、様々なフックを作って、違う観点、違う角度からそこに入っていける人たちに向けてたくさんの扉を作ることが重要であると同時に、かなり困難なことであると思います。
一方で、その困難さがすごく面白くて、あの日誌を綴ることによって、あるいは私たちがそれを読むことによって、それが古典インタプリタというものがどういうものかということが作られてゆく営為でもあったと思うのですね。
ありがとうございます。まさに先生がおっしゃられた、たくさん扉を作っていくというイメージを持っていました。
例えば、ワークショップで山村さんがぽつりとおっしゃることは、門外漢の私には分からないけれども、アニメーションの分野で活躍している方にとっては、全く違う意味をもって重要なこともあるでしょうし、先生方の専門的なご知見を他の分野の研究者が読むことで新たな気づきがあるだろうと思います。そういったことを、自分の関心で取捨選択をしてしまうと大変もったいないので、なるべくたくさんの方の目に触れ、どの角度からでも切り取っていただけるようにという気持ちで日誌を書いておりましたので、そのように評価していただいてありがたいと思います。

私たちが保有している資料や研究そのものを可視化させていくということが求められているわけですけれども、新しいことをするときに、中間成果物を出していくということは待ったなしなんですね。
スピード感が非常に上がっている時代の中で、「ないじぇる芸術共創ラボ」がどのように出来上がってゆくのかということを、古典インタプリタ日誌の中で綴っていった。何かがそこで発生したときに、事が起きたときに、自問自答を含めながら、あまり痕跡をかき消すような形を取らないで書いていたということは、これからの人文科学の中でもこれから取られてゆく、先駆的なひとつの姿勢だというふうに思います。
私たちは自分の研究の中で、資料を整理し、翻刻を行い、解題を作り、事柄を時系列に並べた基本台帳のようなものを作って論文にしていくわけですね。そういった中で、結局公開されることもなく、論文の中に織り込まれていくような過程――調査をしたときに隣にどういう本があったかとか、司書とどういうお話をしたとか、あるいは共同研究会の中でどういうことがあったかということ――は、論文の中に書かれることはありませんけれども、研究というその営為自体がもう少し立体的に見えるような一つのモデルのようなものになるんじゃないかなと思いました。
思いがけないお言葉をいただき恐縮です。
共有のための記録ということだけではなく、自身のためでもあったと思います。先生方の専門的なご知見や、アーティストやトランスレーターのさまざまなバックグラウンドに基づくご発言の意味が、その場では分からないことも多かったのですが、そのままノートに書きつけておいて、後からそれを調べることによって理解したということもありました。
このプロジェクトに関わらなければ、もしかしたら一生交わらなかったかもしれない世界に触れる機会ができたということは、大変贅沢な体験でしたし、3年前の自分であればスルーしてしまっていたような言葉や書物や概念が蓄積され、新たな扉をたくさん開いていただいたというような感覚があります。
●研究者として得たこと
そのことはとても重要で、人によって、それが自分にとってそれがプラスになるのか、あるいは蓄積され、自分の経験として眠り続けるのかということは違うと思うんですけれども。研究者としては、いかがですか。
私個人としての一番大きな気付きは、どのジャンルのアーティストの方も、翻訳家の方も、新しいものと出会ったときに、まずは身体的に取り込むということです。例えば、絵やアニメーションにおいてまずは摸写を行う6。演劇であれば、戯曲を一度書き写してみる。このこと自体はアーティストの方々にとっての「作品」ではないので、表には出ないことが多いのですが、飛躍の前に必ず経る重要な段階だというふうに理解しました。

また、そのことにある程度の時間がかかります。山村さんは、鍬形蕙 斎 の絵手本を何度も模写することで、蕙斎の筆致を理解されましたし7、長塚さんと一緒にワークショップに取り組んだ俳優さんたちも、テキストを身体化するためには、点と点を滑らかに繋ぐために想像を膨らませなければなりませんでした8。勿論、作品を創り上げるのにトライアンドエラーを繰り返すということは頭でわかってはいたのですが、まず自分の体に取り込むための時間が必要なのだということをはっきりと認識しました。
私たちは近世の文学が専門なんですが、古典籍を前にしたときには同じように、まず内容に入り込む前に、その本の大きさがどれぐらいあるかということを巻尺を取り出して測って記述をしたり、丁数を数えてみたり、書入れがあれば朱なのか墨なのか、同じ一人の人間が書き込みをしているのか、いろんな人が書き込んでいるのか、蔵書印を見てそれが朱肉の色によってこれが近代なのか、もっと古いものなのかということを推測すること、勘を働かす時間、極めて身体的な状況があると思います。
そしてたとえば調査先で初めて見る古典籍について調査をしたとして、すぐにそれについて何かを書くことはできないわけですね。咀嚼をして、他のものとの比較対照を行うために、一度自分の書斎に、あるいは研究室に戻って、いろんなことを熟慮した上で構想をしていくという意味では、けっこうパラレルなところもあるような気はしますね。

はい。その古典籍の時代の人たち、つまり近代以前において、模写や音読が学習方法として当然であったということは知識として理解していましたけれども、それに必要な肉体と時間の存在を、ありありと意識したことがなかったということにも気付きました。
それは、古典籍に対する人の関わり方をフラットに見たときに、アーティストであっても、研究者であっても、身体的に何か取り込んだり咀嚼したりして、それぞれの問いをもって何かを引き出そうとするかという点においては平等であるのだという発見だったように思います。
それは大切にしていただきたい発見です。全然違うことをやっている人たちのそばにいますと、自分の活動が逆照射されるといいますか、私たちが研究者としてやっていることの意味が相対化されて、たぶん私であれば勝手に励まされているような気持ちになることもあると思うんですね。このプロジェクトに関わってくださった、館内外の先生たちに、波及であるとか気付きであるとかいうことを、何か観測することはできましたでしょうか。
私見ですが、ご自身の研究や、それから、自分が愛している資料が、全く違うところから発見された、という驚きがあるのではないでしょうか。
ワークショップの中で、先生方のお話を聴いたアーティストやトランスレーターが、思いも寄らない角度から質問を投げかけたり、興味を抱いたりされる。そのやりとりの中で、「そんなところが面白いですか」「そんなに役に立つことがありますか」というような嬉しい驚きが、関わってくださったどの先生からも伝わってきましたし、研究者の中は常識だと思っていることでも、外から見たらすごく面白くて珍しくて、しかも創作のタネになるようなことだということ、ご自身の研究に直接関係しなくても、大変心強くて嬉しいことなのではないかなと思いました。
各地方のいろんな大学や機関、そして当館も、社会人教育ですとか、社会アウトリーチを精力的に行ってきましたけれども、それとはかなり異なることだというふうに思うんです。
つまり研究者がそれに関わることによって、研究者として感性であったり、モチベーションを上げていくことができる。早く言えば、研究そのものに還元される部分がないと、大学共同利用機関として、私たちがここでやろうとしていることが、基盤的な事業としては十全に定着しないように思います。
発信だけではなくて、そのシグナルが返ってきたときに、研究者として充実していくということがあることを強く望みたいというふうに思っています。
●他者とのコミュニケーションとは
このプロジェクトは、まだ始まったばかりのことでもあるし、広く日本文学の研究者コミュニティの中ではまだ認知されていないという状況にあると思うんですね。
端的にうかがうと、ますます忙しくなっていく時代の中で、自分が今出そうとしている成果に直結しない活動としての取り組み、「ないじぇる芸術共創ラボ」のように、研究者でもない人と深く持続的に関わり、わたりあっていくということを、懐疑的に見る人たちに対して、どういうメッセージを送りたいと思いますか。
日本文学研究が教育システムの中で非常に重要な要素だという認識は共通していると思うんですけれども、ただ、従来の大学院までの間に、これが研究、これが教育だというふうに教えられ、体に刻み込んでいる在り方以外の在り方ということにシフトしていくことは、容易なことではないと思うんですね。「ないじぇる芸術共創ラボ」のようなことというのは、まさに細胞を揺らす力、破壊的イノベーションと言いましょうか、もっと優しい言い方をすると、研究者を不安に駆るようなことかなというふうにも思うんですね。そういうことに関してはどうでしょうか。

今日で一番難しいご質問だと思うのですが。
以前、長塚さんたちと「黄表紙は何ぞや」という問答を繰り返すワークショップをして9、私も質問したりされたりしたんですね。
その中の質問に、「結局、現代において黄表紙をどうしたいんですか」というのがあって、「価値を伝えてゆくために広まって欲しい」みたいなことを言うと、「何かの黄表紙がベストセラーになったらご満足ですか」、「黄表紙がいっぱい漫画化されたらいいですか」「アニメ化されたらいいですか」と、どんどん掘り下げられる。でも、なんだかそれは違うと思ってムキになって抵抗するのですが、「なんでダメなんですか」「経済まわりますよ」と引き下がられる…という。
これは勿論、演劇的な趣向のもとで行われた会話ではあったのですが、自分の内面と向き合わされたようで、ハッとしてしまいました。この「アニメ化して人気が出れば満足というわけではない」という気持ちは何だろうかと。“表面的に切り取って、それが広くもてはやされても、その後に何もない”、というゴールを想像すると、研究者の立場としては嫌だったのでしょうね。
全員とは限らないですけど、研究者はこういったもやもやを感じることがあるのではないでしょうか。ゴールは見えないまま「分かりやすく伝えましょう」ということに対する「いや、そんな簡単なもんじゃないんだよ」という抵抗感。
分かりやすさとはいうけれど、取りこぼしもなく優しく伝えることができるのか、そもそも。

そうですね。あるいは「ここが分かりやすくて面白い」というふうにして切り取ってしまうことへの違和感や罪悪感。黄表紙なんかはすごくポップな一面があり、漫画の元祖なんて言うと分かりやすい気がするのかもしれないのですけれども。
でも研究者としての私は、黄表紙からどのように「作者意識」を読み取ることができるのか、などということを考えているわけで、現代と親和性がある要素だけを切り取って「これはこういうものですから、面白いですよ」と言ってそれだけを面白がってもらったところで、次に用意しているものが何もなくって、来てもらっても困るみたいな、そういうジレンマがあるんじゃないかと思うのですね。
ただ、他領域の方だからといって、必ずしも分かりやすい所だけを切り取って欲しがっておられるわけではないかもしれないというふうには思います。
私自身が黄表紙について、一言で説明できなくて困っていたというところから、長塚さんのワークショップが始まったのですが、その、一言では言えないところを、「じゃあ、黄表紙の、一体何が魅力なんですか」「何であなたは漫画って言わないんですか」と問答しながら一緒に掘り下げてくださった。そしてそれが「KYODEN'S WOMAN」という作品につながり、その中で長塚さんは、黄表紙が持つ複雑さを鮮やかに表現しておられたのですね10。
これは「ないじぇる芸術共創ラボ」という特別な場があったからかもしれませんけれども、実際には、アーティストや翻訳家のみなさんが非常に我慢づよく研究者との問答に応じてくださって、「分かりにくいというところが面白いんですね」と言ってくださったということがありました。専門家と同じ文脈では理解できないけれども、そのことを魅力的だと思って研究している人がいるということ自体を尊重して、一緒に面白がってくださった。
他者が求めていることを「こうだ」と決めつけて、分かりやすさ、とっつきやすさだけを切り取ったところで、お互いが満足のいくコミュニケーションが取れるわけがないですよね。こちらもほんの表面だけを切り取っておきながら、「そこだけで分かってたまるか」という気持ちがあり、相手も深くへは入り込めないという、全然幸せじゃないコミュニケーションが続いているのが現状じゃないかなということを、自省を込めて思いました。
今は、もっと「“分からない”ということを共有して、時間をかけて一緒に考える」というスタンスがあった方が、お互いにとって幸せなのではないかと考えています。
アーティストや翻訳家たちは、分かりやすさを求めるのではなくて、分からないままなりに、貪欲に吸い付いていましたね。しかしワークショップの中で、それがどういうことか問いを立てることができる基礎知識を身につけていて、その問いを畳みかけることによって研究者が新しい発想をしたり、あるいは自己確認といいますか、研究をするということがどういうことかということを、はたと気付いたり、あるいはじんわりと何かを感じたりするということは、大きな力になり得るかなというふうに思いますね。
例えば、俳優であったり、小説家であったり、作曲家から示されて教えられたことがそのまま研究にそのまま投影されるようなことだけではなくて、その研究者としての立ち居振る舞いであったり発想であったり、あるいは承認を豊かにしていくことがあるように思いました。それから、社会とのインターフェイスを求められるときに、どういうふうに自分の研究を伝えていくのか、発信をしていくかということは、経験によって深めることができるんじゃないかなというふうに、話を伺っていて思いました。
●「古典インタプリタ」という職能の今後について
私から館長にぜひ伺いたいことがありまして。
はい、どうぞ。
このプロジェクトを立ち上げられた目的の中に、若手育成ということがあったと思いますが、他の職場では得難い経験をした人間が、別の場所でも活躍してゆくためには、こういった仕事の在り方を客観的に評価する基準が、まだ整ってはいないように感じています。古典インタプリタという新しい「職能」の今後について、構想をお聞かせいただけますでしょうか。

発想の一番の源泉が、当館が進めている大型フロンティア促進事業「歴史的日本語の古典籍の共同国際研究」11の認知を高め、活用範囲を広げる必要がある、ということでした。
電子空間の中にたくさん素晴らしい研究資源を開放していく12ことによって、研究者コミュニティのみならず、広く社会の中でそれが根を生やし使えるようにしてゆく。そうすることによって、私たちのミッションが拡充、継続し、今ちょうど進めようとしている後継プロジェクトにつながっていくということが大切です。
その事業を相乗的に補完し合う役割として、ないじぇるがあり、アーティストなど他分野の方々との交流や社会連携を通じて、新たな価値を創出するという構想です。特に後者では、古典インタプリタを育成することにより、これからの日本文学の研究領域そのものや教育を、より豊かなものにしていくものだというふうに思っています。
しかし有澤先生がおっしゃるように、その経験すべてが履歴書に書けるようなものではありませんので、理想的なものとしては、古典インタプリタの認証制度のようなものをつくるということが最終形かなと思っています。
ちょうど先日、国立公文書館が、アーキビストという非常に重要な職能の認証制度をつくって資格化していく「認証アーキビスト制度」の立ち上げを発表しましたが13、古典インタプリタについても、規模が違っても構わないので、取り組んでいくべきだと考えます。
私たちはけっして多くない予算と時間と人員で、この「ないじぇる芸術共創ラボ」を作りましたけれども、できるならば、他機関との協働の中で育成プログラムというものを作り、それを修了したものに、例えば「認証古典インタプリタ」を与えられると、だいぶ違うというふうに思います。
それぞれの大学であったり、地域の図書館であったり、美術館であったり、いろんな形態の機関や団体で、パラレルに同じような仕組みを作ってゆくということはできます。ここは大学共同利用機関ですから、たくさんの資料があり、風通しも良く、たくさんの研究者たちが私たちと緩やかにつながっているという利点があるんですね。そういった連携を呼び掛けていくということが十分にできると思いますし、人材育成ということがきちんと評価されるためにも、将来必要なことだなというふうに思っています。
ありがとうございます。さまざまな場所での取り組みが連携でき、そのような認証システムができるととても頼もしいなあと思います。
最後に近いかもしれませんけれども、有澤先生から見て、現時点の積み残し、あるいは課題、実際に取り組んで直せるようなことがあればぜひ、教えていただきたいと思います。
一つは資金面のことです。外部資金を獲得し続けるということは、非常に大きなアイデンティティではあるのですけれども、やはり年度ごとの予算だけでは、なかなか長期的な計画を立てることはできませんし、じっくりとアーティストとの信頼関係を築き、研究者との協働を見守っていくということも難しいかなということを感じておりましたので、ある一定の期間は自由に使える資金があることが望ましいと考えています。
もう一つは、さまざまな業務に取り組む上で、専門家の力を借りるということです。
たとえば今年度は動画配信などに力を入れていますが、番組作りのノウハウを持つ専門家と一緒に仕事をすると、動画のクオリティも上がりますし、学ぶことも多くあります。意思の疎通がしやすいパートナーがたくさんいて、お互いの経験値を高め合えるような関係があれば、自分の為すべきことに注力することができ、仕事の精度があがるように思います。
なるほどね。特に若手の助教や准教授には、こういったタスクにできるだけ触れていただきながらも、エフォートにきちんとそこが見えるように、自分の業務としてカウントされるような形で、緩やかに、館全体に共有していく。もっと広くやっていかないといけないなというふうに思っています。
もう一つは、私たちは他機関との協働、企業への発注ということも含めて、プロジェクトごとにプロジェクトベースでそれを決めて、予算とにらみながらその執行をしているわけですけれども、もう少し大局的に見て、システムとしてどうやっていくかということ、そこをもっと整備する余地があるようには思います。
私たちは法人とはいえ、国立に準じた運営をしているので、予算の使い方には当然制限がありますけれども、ただ外部資金の獲得に一定の成功もしているので、必ずしもすべてが年度に拘束されるということではありません。計画的に、スムーズに年度をまたいでいろんな取り組みができるようにしていくということは、ぜひ、これからの運営で行っていきたいと思います。
●おわりに
これからあと半年ぐらいありますけれども、どうですか、この3年間、良かったですか。
良かったです。
そうですか。

はい、これは即答ですけれども。
さまざまな出会いを通して、多くの扉をひらいていただいたと思いますし、そのことによる自身の変化を感じます。たとえば、授業で学生と一緒に考える仕組みや時間をつくるようなことは、ここに来た頃には全くできませんでしたが、いつの間にかできるようになっていたり。
でもそういったことも、一人で身に付けたということではなくて、さまざまな方のお仕事やコミュニケーションの在り方から学ぶことが多かったと思います。
この事業の取組みは前例のないものが多かったので、事務の方々のお力を借りなければ実現できないこともたくさんあったのですが、いつも知恵を絞って調整してくださいました。当然ながら、違う立場の人たちと一緒に何かをすると、それぞれ守るべきものが違うので、何も言わなくて通じるということは全くないのですが、様々な立場の人たちと確認し合い、一つずつ積み上げていかなければ成立しないプロジェクトだからこそ、館の仕組みやあらゆる場所での調整の在り方について、理解を深めることができたのだと思います。
本当に僭越ですが、3年間、有澤さんと伴走しながら、全然違う立場ではあるけれども、この事業に関わっていて、あなた自身の変化、これは成長と言い換えてもいいと思いますが、それを見届けることが、私にとっても非常に励みになりました。
反省材料ももちろん含めて、有澤先生がある側面においては当惑し、ある側面においてはすっと前に出て率先して物事を運んでいくという姿であったり。大学院を終えたばかりの時期にここに来てくださったわけですけれども、その成長ぶりを見ると、事務方を含めて教員たち、ここの人々がやっぱり一つの目標に向かっている力ということを本当にありがたく、とても大切にしないといけないことだなというふうに、痛感したわけですね。
これからまた、後輩たちが入ってくると思いますし、国文学研究資料館のいろんな取り組みが外から見ておかしいなとおもったとき「おかしいぞ」ってちゃんと言ってもらえるように、適宜な距離を保ちながらいろいろボールを投げ続けていただきたいというふうに願っています。本当に今日もありがとうございました。
ありがとうございました。
- 1) 国文研内外の古典籍の画像と書誌情報をWEB上で自由に取り出すことのできる「新日本古典籍総合データベース(https://kotenseki.nijl.ac.jp/)」を構築、発信するとともに、データベースを活用した共同研究などを推進している。
- 2) 初年度は、「平成29年度戦略的芸術文化創造推進事業」の委託事業として立ち上がった。 記者発表の様子(2017/10/17)→https://www.nijl.ac.jp/pages/nijl/symposium/index.html
- 3) 初年度のAIRは、川上弘美氏(小説家)・長塚圭史氏(劇作家・演出家・俳優)・山村浩二氏(アニメーション作家)、TIRはピーター・J・マクミラン氏。
- 4) 平成30年度は、文化庁委託事業「平成30年度戦略的芸術文化創造推進事業」として、令和元年度と2年度は、文化庁「日本博を契機とする文化資源コンテンツ創成事業」として実施している。
- 5) 非公開のワークショップや、一般来場者を迎えるイベントまで、あらゆることを記録した日誌。ないじぇるのWEBで公開されている。https://www.nijl.ac.jp/pages/nijl/diary/index.html
なおワークショップでは、AIR・TIRの関心に応じて、さまざまな分野の研究者とのマッチングを行うが、内容は、古典籍や先行研究を駆使した講義や、和本の製本・取扱い方といった実習、AIR・TIRの領域を研究者が体感することなど、さまざまな例がある。 - 6) 松平莉奈氏(日本画家)による『金々(きんきん)先生(せんせい)栄(えい)花夢(がのゆめ)』の複製は、WEB上で公開している。 画像→https://www.nijl.ac.jp/pages/nijl/artist_contents/matsudaira_handwriting_copy.pdf
- 7) 山村浩二氏が蕙斎の絵手本を何度も模写したときに得た感覚については、「ゆめみのえ」完成記念試写会のトークセッション等においても語られている。 動画→https://www.nijl.ac.jp/pages/nijl/past/index.html#yumeminoe
- 8) 俳優たちとのワークショップにおいて、黄表紙が作られて売り出されるまでの過程を描いた黄表紙『的中地本問屋(あたりやしたぢほんどいや)』を手掛りに、黄表紙を作る職人たちの身体の動きを表現した。 日誌→https://www.nijl.ac.jp/pages/nijl/diary_contents/nagatsuka_300328-30.pdf
- 9) 2019年2月22日~26日に行ったワークショップ。一人ずつ「黄表紙研究者」になり、他の俳優演じる「記者」たちのでたらめな質問に答える即興劇を行った。
日誌→https://www.nijl.ac.jp/pages/nijl/diary_contents/nagatsuka_310222_23_26.pdf
なお黄表紙とは、18世紀末~19世紀初頭の江戸において、30年間だけ出版された、知識人向けの滑稽な絵入読み物。 - 10) 長塚圭史作・演出。2020年2月に国文研閲覧室で上演予定であったが、新型コロナウイルス感染症流行の影響により延期、8月に、朗読劇というかたちで上演された。
詳細→https://www.nijl.ac.jp/pages/nijl/artist_contents/nagatsuka/kw/index.html - 11) https://www.nijl.ac.jp/pages/cijproject/
- 12) 新日本古典籍総合データベースなどによる。
- 13) http://www.archives.go.jp/ninsho/
有澤先生が古典インタプリタに就任して、はや3年がたちました。
このプロジェクト立ち上げにあたり、われわれの研究の成果を拡充し、共有していく一つのメソッドとして、研究者ではない方々に直に古典籍に触れていただき、新たな表現で、あるいは言葉の壁を越えて、日本語の古典の魅力を国内外に伝えていくことができたらというふうに思っていました。
また、この10年位で電子情報化や通信技術が進むにつれて、私たちのミッションが、データを積み上げ、整備し、発信をするだけではなくて、それをどのように資源として使って研究を深めてゆくのか、そして、それらを重要な宝としてどのように社会と共有し、私たちの研究にどう還元させるかということが重要だと考えていたところでした1。
大量の古典籍が一方にあり、もう一方では研究者コミュニティがあり、また一方ではそれぞれの分野の中で第一人者ともいえる活動をしているアーティストたち、それから翻訳者たちがいるわけですが、いくら芸術共創ラボといったようなものを立ち上げたとしても、この三点は永遠にたぶん点として夜空にそのままそれぞれが輝き光を発しているだけであって、一つの星座のように絵を描くということはできない。一番重要なのは、文献資料を熟知していてナビゲートする役割です。研究者たちと協力関係をつくり、古典籍を自力では読み込めないアーティストたちや翻訳者たちと取り結ぶ役割が必要だというふうに思いました。
日本の人文科学の中ではこういった事例がまだほとんどありませんが、これからどういうふうに私たちが持っている資源の利活用が可能かという視野を持っている人、一方では自分の研究、あるいは共同研究の境目を超えて他流試合ができる人ということを考えると、やはり若手の研究者がふさわしい。ですから、一つのキャリアパスとして、ここでその専門性のディシプリンのみならず、知的他者との折り合いができたり、自ら立案をしたり、人文科学の中でイノベーションを生み出す人材を育成したいと考えました。
私がここに来る前までは東京大学で教えておりまして、やはり若い人材を採用するときに、自分の専門分野の研究以外にどういう歩み合いを行い、新しい知のどんぐりを見つけて発芽させる、経験や知識や資質があるかということを問うわけですね。多分それは東京大学だけではなく、全国の大学でも、一つのディシプリンではなくて超域的な観点や資質を求めるという動きは加速しているだろうというふうに思うんですね。
ですから、館を出た後のキャリアの中で、ここで古典インタプリタとして得た経験や感性をもって、従来の教育や研究の在り方とは異なる角度の提案をしていくということができればという理想図を描いていたわけですね。
英語でon the job trainingとよく言いますけれども、有澤先生は職場の中で訓練をしていくというようなことになりましたが、それはよかったのかどうだったのかということも含めて、今日は3年間を振り返って、ぜひ忌憚のないところをお聞きしたいと思います。 そしてわれわれにとっては痛恨事ではありますが、有澤先生の、神戸大学人文学研究科への転出が決まりました。今日は9月の末日ですけれども、明日から半年間は神戸大学とクロスアポイントメントを行うということで、これも当館にとっては新しい第一歩でもあるわけですけれども、他機関と協同しながら、どちらの業務も行っていただくことになります。有澤先生が、ここで古典インタプリタとして磨き上げた腕を、また新たな場所でふるい、多くの優れた学生や同僚たち、あるいは地域の方々が迎えられるということを、本当にうれしく思います。本当におめでとうございます。