「古典籍」という言葉をご存じでしょうか。古典籍=昔造られた本のこと。
日本の古典籍は、明治からさかのぼって千年以上、日本人の手で写され、木版技術などで印刷された書物のことです。 和本、和古書、和装本など名前はいろいろあるけれど、分かりやすい言い方をすると西洋文明が広く日本に伝わる以前のこと、人々が造り、広め、その手に取って読み、そして次世代へ大切に伝えていった実物の本。動画も音源もない時代に唯一、自分たちの経験やアイディア、気持ちなどを直接言葉にとどめ、交換し、永く後の時代にも伝える手段としてあったのが、本でした。アイデンティティを刻む歳月の集合体、と言い換えてもいいのかもしれません。私たちの時代からすると、それが「古典籍」です。
国文学研究資料館(大学共同利用機関法人。「NIJL」「国文研」と言います)では、半世紀にわたり日本の生活と精神文化遺産である古典籍を国内から海外に広く求め、調査をし、一点ずつ全文撮影を行った上でそれらを公開することをミッションとしてきました。現在も豊富な古典籍を材料に、たくさんの共同研究と普及プロジェクトを行っています。一般にあまり知られていませんが、世界に類を見ない、学びたい人全員に開かれた一国のあらゆる文学資源を集めた共同利用の研究機関です。
半世紀の間にこつこつと膨大な文学作品を集めた国文研では、海外は約70カ所、国内では1,000カ所以上の所蔵機関や個人宅などで古典籍を調査し、その数合わせて430,000タイトル以上にのぼります。そのうちマイクロフィルムなどで収蔵しているタイトル数は約280,000点。冊数に換算すると、およそ100万冊を超える画像の蔵書になります。そのフィルム等に加え、館内には重要文化財をふくむ実物の古典籍が約22,000タイトルもあります。
今、国文研では新しいリソースを作ろうとしています。
文学にかぎらず、自然科学から和算、美術、宗教などあらゆるジャンルを対象に、300,000タイトルもの古典籍による画像データベースを構築し、Web上で公開しようとしています。1点1点を全文撮影し、複数の方法で検索できるよう画像にタグづけを行い、「新日本古典籍総合データベース」として公開しています(http://www.nijl.ac.jp/pages/cijproject/)。明治以前の古典籍に流れる、現代人の常識を超える感性と知識を敷き詰めたような、まさに古典知の宝庫です。この画像データベースを拠点に、世界中の日本研究者といっしょに国際共同研究ネットワークを作り上げ、拡充させていきます。
このリソースと連動して、
今回はないじぇる芸術共創ラボを立ち上げることにしました。
ないじぇる芸術共創ラボは、文化庁の「戦略的芸術文化創造推進事業」を受託し、国文研で培ってきた古典籍の数々と
専門家によるネットワークを研究者コミュニティの外側に開放しようとするものです。
開放することで、私たちの時代に新しいモノと文化の創成が望めるのではないかと期待しています。
ラボを動かす部門は3つあります。
① ひとつ目は芸術家との共創、アーティスト・イン・レジデンス(=AIR)
プロの表現者数名を一定の期間、国文研に招き、創作活動を行ってもらうプログラムです。小説からアニメーション、舞台芸術、工業デザイン、作曲等々、表象芸術にたずさわるクリエータたちと共に古典籍の森へ分け入り、探索して、その過程で得た感性と知識から新しい作品世界を見出していく企画です。現代芸術は、完成した作品以上に創作のプロセスを重視する特性があることから、成果にかぎらず、作品が産まれる過程を公開ワークショップや動画配信などによって記録し、共有していきます。知られざる古典知にふれることで、アーティストが現在空気のように共有されている「ニッポン」とは異なる状況を感じ取り、イメージやストーリーの幅を増やし刷新していこうという事業です。各方面で叫ばれて久しい、「伝統から革新へ」、という理念に向かって創成のナビゲーションを担いたいと考えています。
② ふたつ目は、トランスレーター・イン・レジデンス
同じく一定の期間に日本文学を外国語に訳することが専門の翻訳家を招き、文学資源の発掘と他言語化に挑んでもらうプログラムです。翻訳は、言うまでもなく文化と地域間の理解を深める上で不可欠な営みです。しかし明治以前に書かれた日本文学の翻訳を見ると、多くの作品は戦後に選び取られ、注釈や現代語訳が整った古典文学全集といった既存シリーズに収められたものから翻訳されていることが分かります。古典籍の沃野からすると氷山の一角。必ずしも海外各地の読者にとって今求められているセレクションであるとはかぎりません。翻訳家が研究者といっしょに古典籍を探索し、未翻字・未校訂テキストをふくめて多様な作品を視野に入れ、翻訳作品を選定していきます。日本文化への理解をいっそう深めることで、発信できる翻訳家をサポートする。数百年間、日本人も注目してこなかった書籍に光を当て、日本の古典知をいわば産地直送で外国の読者へ届けてもらおうというプロジェクトです。
クリエータ(AIR)も翻訳家(TIR)も、豊富な古典籍に分け入り触れていくことで、かつて整備された情報にかぎらず、列島各地で流通した「生」の文字と図像による証言を発掘し、現在と未来の文化創成へ繋げていくことが可能となります。
③ 3つ目の、影の立役者は古典インタプリタ
古典籍は昔の文体で書かれ、表記も多くは崩し字という現代人から見れば解けない格好で表されています。アーティストと翻訳家が毎年古典籍の森の中へ入り、縦横に径を駆け巡り、無事に帰ってくるのに、足腰のしっかりした案内役が必要。作品選定から判読、研究情報へのアクセスと整理、制作作業のサポート。制作に向けた取り組み、またその成果を国文研の外へ送り出していくためには、さまざまなスキルが求められます。そのことから、古典知のナビゲータを育成し投入することにしました。日本の大学に科学技術インタプリタを養成するプログラムはありますが、人文科学の領域において同類の枠組みはまだ定着していません。国文研では、文系科学に関する学力と実績をもった若手研究者を特任助教に迎え、任に当たらせると同時に、自治体や民間機関などでの「出稽古」を実施していきます。インタプリタが任期中身につけた職能を長くキャリアで活かし、学界に対しても日本文学研究者の新たなあり方を提示していくことができるよう支援します。
クリエータ(AIR)も翻訳家(TIR)も、豊富な古典籍に分け入り触れていくことで、かつての列島各地で流通していた
「生」の文字と図像による証言を掘り起こし、未来の文化創成に繋げていくことが可能と考えます。
ないじぇる芸術共創ラボは、何百年も前に書かれた言葉やジェスチャー、風景の記録から新たな地平を見出すことを
実現するためのプロジェクトです。
多くの方々と共にその方向に歩むことを楽しみにしています。
平成29年10月
ロバート キャンベル
国文学研究資料館長