ないじぇるリポート
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―AIR・川上弘美さんとの WSから(2)―
『三度目の恋』には、主人公の夫・生矢が在原業平を思い起こさせる造形で描かれるなど、『伊勢物語』のモチーフが随所に散りばめられていますが、それと同時に、作中には小道具として実際の『伊勢物語』も登場し、古典に触れたことのある読者を不思議な二重構造の中へいざないます。
行灯の光のもとでは、濃紫のおねえさんが読んでいた伊勢物語本の文章が、わたしが高校時代に教科書で読んだ伊勢物語の文章とは、まったく違うものであるように感じられました。授業で伊勢物語をいやいや読んでいた時には、その文字や文章は、いかにも平らで荒唐無稽で欠け多く思えたのです。
ところが、あのおぐらい郭で(中略)眺めた伊勢物語は、たいそうしんねりと色よいさまに思われるのでした。(『三度目の恋』第12回)
夢の中で、江戸時代の遊郭に暮らす禿(かむろ・遊女見習いの幼女)となった主人公・梨子は、古典に素養のある「濃紫のおねえさん」が読んでいる『伊勢物語』の「白玉の段」、すなわち第六段に心を引かれ、業平の盗み出した女(のちの二条の后)が雷雨のなか鬼に喰われ消えてしまう、という結末に涙します。対して、小学校で用務員を務めていた縁から梨子と交友関係にある「高丘さん」は、女は実際は兄たちに連れ戻されたのだ、と物語の背後にある真実を告げます。そのことは、『伊勢物語』第六段の末尾、「後人注」と呼ばれる部分に次のように書かれています。
御兄――堀河の大臣、太郎国経の大納言――まだ下﨟にて内裏へ参りたまふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とどめてとりかへしたまうてけり。それを、かく「鬼」とはいふなりけり。(注1)
ところで、ここまで『三度目の恋』を読み進めてきた読者は、梨子の涙したこの第六段が、すでに小説中にモチーフとして使われていたことを知っているはずです。それは、生矢が勤め先の副社長の許嫁に恋をし、人知れず逢瀬を重ねるも、ある日唐突に破局を迎えるエピソードでした。
そのひとには長兄と次兄がおり、あるときナーちゃんとそのひとが逢っているところに突然やって来て、そのひとを家にひき戻したそうです。それはちょうど、二人で逢っているお店の個室の席を、手洗いに行くためにナーちゃんが一瞬はずした時だったとか。
(『三度目の恋』第7回)
二人の兄に連れ戻された女が、やんごとない家柄の娘であり、男の気づかぬうちに消えてしまう、という点まで、この挿話は『伊勢物語』を忠実になぞっています。
この出来事があった当時は、「授業でいやいや読んでいた」程度の経験しかなかった梨子ですが、遊郭の禿として『伊勢物語』に接した彼女は、ことの顛末が「白玉の段」とそのまま重なり合うことに気づけるはずです。そうすると、小説中に散りばめられた『伊勢物語』のモチーフが次々と梨子に知覚され、果ては生矢その人が業平であり、自らが『伊勢物語』の世界を生きていることさえも、彼女の知るところとなるのでしょうか。
平安時代物語の語り手は時に、
御心の中なりけむこと、いかで漏りにけん。(注2)
のような感想を挟み、自身の語る物語がフィクションであることを露呈します。梨子もまた物語の枠組みを飛び越えようとする時が訪れるのか否かが、私の関心事の一つです。
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あるいはこのような理解は、川上さんの狙いを読み違えたものであるのかもしれません。そこで気になるのが、私の研究テーマの一つである「誤読」の問題です。
平安時代の物語や日記を読んでいると、助詞や助動詞の単純な錯誤や、ことばの用例にそぐわない解釈、文脈の誤認、難解な文を通ぜしめるための意図的な曲解といった、さまざまな「誤読」があることに気づかされます。私は主に『源氏物語』について、それらを正していく作業に取り組んでいますが、明確な過ちはともかく、複数の解釈が成り立ちうる場合も少なくなく、難渋することがあります。
作者などとうに亡く、そもそも誰が書いたのかすらも分からない古典の場合、その正解は神のみぞ知るですが、はっきりと作者の決まった現代小説の場合は話が違います。複数の解釈が成り立ちうる場合でも、作者自身の狙いがただ一つのこともあれば、狙いを定めず、読者に解釈の幅を与えていることもあるでしょう。
川上さんは作家として「誤読」をどうお受け止めになるのか、『三度目の恋』を反芻しながら思いを馳せています。
(国文学研究資料館特任助教・岡田貴憲)