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ないじぇるリポート

山村浩二氏とのワークショップ

木越俊介(国文学研究資料館准教授)

 第一線で活躍中のアニメーション・絵本作家が、江戸時代の絵手本に何を思うか─山村浩二さんと古典籍を介してセッションを持てると聞いた時、まず思い浮かんだのはこのことであった。この時私が選んだのが、図案集であるのみならず、絵を描くことそのものを図示し説き及んだ本、鍬形蕙斎の『人物略画式』(寛政七年〈1795〉版)。本書の冒頭に配置された奇妙な人体図─マス目に人体をマトリックスとして描いたもの─これを使えば「画意(ゑごゝろ)なき者にも此通りに画がけるなり」とマニュアル化している点などをめぐって、絵を描くということについて色々お聞きしようと考えたからだ。

 実際、山村さんとの初回のやりとりではそうした問題について対話することができた。描き手としては、デジタル的な手法でマニュアル化されたものでは役に立たず、モノを一度自分の中に取り込むことがいかに重要かということを理解することになった。この「取り込む」という感覚は、山村さんの画業に一貫して不可欠なものとしてある。

 私自身は『人物略画式』全体のあり方と冒頭の人体図との隔たりから、マトリックスは蕙斎ではなく、版元あたりがこしらえたものではないかと疑っているのだが、やはりこの本の魅力は誰が見ても鍬形蕙斎の「略画」そのものにあるのであり、ラボにおける興味の方向性は自ずと、鍬形蕙斎その人と略画にフォーカスしていくことになった。

 ラボの活動で面白いのは、このような古典籍を介したやりとりを通して、アーティストという異分野の他者との間にいつのまにか共通する興味が見つかることである。これはピントを合わせるような感覚であり、その過程においてわれわれ研究者は、古典籍を”研究対象”として見るのとは異なる新たな視点を発見することになる。

 もともと蕙斎の絵にひかれていた山村さんは、このラボにおいて集中して蕙斎を〈取り込む〉ことになった。研究者の場合は蕙斎に〈取り組む〉のかもしれないが、山村さんは実際に略画式に描かれた線を何度もたどり、一体化するほどまでに身体的に蕙斎に迫ったのだ。山村さんの筆による模写は膨大な数にのぼり、そのことによって、蕙斎の絵にある〈動き〉をつかんでいく。このプロセスに伴走できたことはとても貴重な体験であった。

 一方、ラボにおける他のセッションでは、山村さんのかねてからのテーマであった「夢の表象」をめぐるやりとりも行われていた。当館の入口敦志教授に導かれ、日本や中国のイメージにおける「夢」の描かれ方、とりわけフキダシの描線についての文化史をたどる中で、山村さんが幼い頃からひかれていた『雨月物語』「夢応の鯉魚」が大きなモチーフとして浮上してきた。この『雨月物語』も、当館所蔵の貴重本を目の前に置き、触れながら話をすることができたのは幸運であった。

 こうして、山村さんの中にあるイメージやストーリーがまたたくまに醸成されカタチとなり、それはいつしか「ゆめみのえ」と名づけられ、作品はお会いするたびに膨らんでいった。ラボの活動の一つとしてアトリエにお邪魔させていただく機会があったが、山村さんのアニメーションの絵はご存じの通り完全に手描きによるものであり、それが途方もない作業の繰り返しによって作品として結実することを目の当たりにした。

 やがて、絵が色をともない動き、都内の複数のスタジオでは声、音が加わり、われわれはまさに生命が吹き込まれる瞬間に立ち会うことができた。

 ついに産声をあげた「ゆめみのえ」は、2019年8月に渋谷ユーロライブで完成記念のお披露目の試写会とトークショーが行われ、目下世界各地の映画祭を回って、2020年の夏以降には一般の方にも鑑賞いただけるはずである。

 こうしたモノに触れるという具体を中心とした一連のワークショップの過程では、一方で抽象度の高い議論もあった。とりわけ「夢」をめぐる話や山村さんの作品に内在するテーマに触発される形で、小説作品を研究する私は現実と虚構をめぐる問題に改めて向き合うこととなった。このことを一度山村さんと徹底的に話してみたいという希望は、公開講座「虚と実」として、2019年5月、横浜の東京藝術大学において叶えられた。とても刺激的なトークセッションとなった当日の模様は、活字としてまとめられる予定である。

 ふりかえると、このラボは研究とアート双方にある力を可視化、自覚化できる場として機能していることに気付かされる。相互に掛け合わせることではじめて見えるもの、そんな可能性に満ちあふれた、頭が開きっぱなしになる「場」は、このラボに限らずアカデミックな世界にもっとあっていいと思う。

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