ないじぇるリポート
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『KYODEN’S WOMAN』
日置貴之(明治大学准教授)
2020年2月29日に上演を予定していたところ、新型コロナウイルス感染症の流行により延期となっていた『KYODEN’S WOMAN』が、8月30日に日の目を見た。2017年10月からないじぇる芸術共創ラボに参加している長塚圭史氏の作・演出による演劇作品である。本来は、国文学研究資料館の閲覧室内を観客が移動しながら観劇する形で作られたが、今回は少人数の観客向けのリーディング形式となった。
国文学研究資料館の閲覧室を訪れた岡部たかし(俳優が実名で登場する)と観客たちの前に、悩ましい声を漏らしながら古典籍の頁をめくる女性・アリモトトモコ(李千鶴)が現れる。アリモトは「国文学研究資料館」に在籍する山東京伝の研究者にして、熱烈なファンであり、今まさに「京伝の未発表の黄表紙の草稿」を目にして、喜びに身を震わせていたのである。この幻の草稿をアリモトに渡したのは、アダキ(土屋佑壱)という男であった。アダキはかつて同僚だったアリモトと交際していたが、別の女性に手を出し、職場にもいられなくなった過去を持っていた。アダキは、なおも悦びの声を上げつつ黄表紙の頁を繰るアリモトから草稿を取り返そうとするが、草稿は謎の男によって持ち去られ、アリモトとアダキはその跡を追う。
ここからは本来の構想では、3人の人物による語りが、閲覧室内の複数の場所で同時多発的に提示され、観客は事前に渡されたカードの番号に応じて、別々の場面を見ることになっていたが、今回は順番に演じられた。
最初の語りは草稿を持ち去った男のもので、この男こそ、山東京伝その人(高木稟)であった。どうやら彼は、黄表紙の中から飛び出してきたらしいが、自分の状況を理解しきれないまま、観客に語りかけ、再び消えていく。一方、アリモトは京伝を追いかけるうち、かつての自分(「あの日のアリモトトモコ」、引間文佳)と出会い、対話する。アダキも、観客に語りかける。自分よりも京伝に夢中なアリモトに愛想を尽かし、若い女性と結婚したのだが、彼にとっても若い妻にとっても今の穏やかすぎる生活は刺激に欠ける。そこで彼は偶然手に入れた幻の草稿を餌にアリモトを誘い、「狂言不倫」を演じることで、妻の気を引こうとしたのだった。
3人の語りが終わると(本来はここで再び観客は一か所に集められた)、岡部とアリモト、そして他の「閲覧者」たち(坂本慶介、大鶴美仁音、引間文佳)は、閲覧室の一角を占めるマイクロフィルムリーダーについて議論を始め、話題は国文学研究資料館の存在意義や古典籍の持つ価値などへと広がっていく。そして、いつしか閲覧者たちには曲亭馬琴や京伝の弟の戯作者・山東京山、京伝の妻・百合などが憑依する??。
京伝の『江戸生艶気樺焼』『心学早染艸』等の黄表紙の設定や、黄表紙というジャンルに広く見られるメタフィクション構造や最新の出来事の当て込み(例えばアダキの語りの中には、上演当時ワイドショーを騒がせていた芸能人のスキャンダルを明らかに思わせる箇所があった)などを用いつつ、資料館の活動や存在意義などにも触れるなど、アウトリーチ的意図も盛り込んだ内容であるが、個人的に興味深かったのは、古典籍(書物)に向き合うという行為の「身体性」や古典籍自体の「物質性」をさまざまな形で描き出していた点である。
岡部「弟の京山。京伝と京山。へえ。(しばらく見ている)これ角(すみ)のところが黒く汚れているのは?」
閲覧者二「手垢ですね」
岡部「つまり江戸時代から捲(めく)り重ねられてきた手垢というわけですね」」
といったセリフに端的に現れているが、古典籍に向き合うということは、単にそこに記された作品の情報を受け取るだけの行為ではない。それは、自分の身体と物質(モノ)としての書物を接触させ、手擦れ・手垢や落書きといった、その書物にこれまで接触してきた身体の痕跡をも感じる行為でもある。また古典籍は、アリモトを、それに触れることを通して、かつての自分との対話へと誘ったように精神的な次元へ働きかけることもあれば、アダキが幻の黄表紙でアリモトを釣り、あるいは黄表紙がそもそも年始の贈答品としての側面を持っていたように、「モノ」として人々の思惑を運ぶ存在ともなる。京伝のような作者から見れば、書物(作品)は時に自らの身体の一部とも感じられる存在であるかもしれないし、自分に収入をもたらしたり、逆に人目に触れることをなんとしても避けたいと思ったりする「モノ」でもあるかもしれない。
かくのごとく古典籍に向き合う行為の「身体性」や、古典籍の持つ「物質性」は幅広い。そのさまざまな側面を演劇として提示したことに、この舞台の面白さがあった。こうした身体性や物質性への着目には、アーティスト・イン・レジデンスとして実際に研究者とともに古典籍に触れるワークショップ等を重ねてきた長塚氏の経験が反映されているだろう。
長塚氏は自身の劇団・阿佐ヶ谷スパイダースでは昨年、『桜姫?燃焦旋律隊殺於焼跡』を上演した。四代目鶴屋南北の歌舞伎『桜姫東文章』の舞台を戦後まもない日本に置き換えてアレンジしたものだが、江戸時代の芝居小屋を思わせる張り出し舞台とその手前の観客席との間に設けられた深い溝とは、前近代の物語や表現手法と、そこからの私たちの断絶との両面への意識が強く窺えた。『桜姫』自体は過去にお蔵入りとなった戯曲だというが、その作品に再び向き合い、そのような形で舞台化した背景にも、近年の国文学研究資料館での経験が反映していると見るのは穿ち過ぎであろうか。なお、この公演では、長塚氏と「古典インタプリタ」としてないじぇる芸術共創ラボの事業に携わる有澤知世氏とによるプレトークも行われた。
古典が保存され、研究されるだけでなく、現代の創作者にとってのヒントとなり、新たな価値の創造へとつながっていくことを期待したい。