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ないじぇるリポート

『扇の草紙』のマクミラン氏英訳を通じて ―「峰の松風通ふらし」をめぐる断章 ―

小山順子(京都女子大学文学部教授)

 ないじぇる芸術共創ラボでは、 TIR(トランスレート・イン・レジデンス)のピーター J マクミラン氏に『扇の草子』の翻訳に取り組んでいただいた。その成果の一部は「デジタル発和書の旅湯とアートが鳴子で出会う」(2018年 3月 9日(金)、宮城県大崎市鳴子温泉・早稲田桟敷湯)と「ひるがえる和歌たち ―扇と翻訳で古都に遊ぶ ―」(2018年 12月 9日(日)京都市上京区・有斐斎弘道館)という二度のアウトプットイベントにて報告した。このアウトプットイベントでは、凸版印刷の開発した高精細画像のアプリを利用してないじぇる芸術共創ラボの取り組みを紹介した。いずれもマクミラン氏のパートは、国文学研究資料館所蔵の『扇の草子』 2点(絵巻・屏風)の画像とともに、和歌の内容およびマクミラン氏による英訳の工夫の在処を紹介するというものだった。

 『扇の草子』は、室町時代に人口に膾炙した著名歌や、絵画にして面白さのある和歌が収められるものであり、著名歌の中には『小倉百人一首』の和歌も含まれている。すでにマクミラン氏は『小倉百人一首』の英訳を発表され、高い評価を得ている。イベントでは『小倉百人一首』所収のなじみ深い和歌の英訳を取り上げるとともに、今回新たに英訳に取り組んだ和歌も選んだ。

 一度目のイベントで選んだのは、「琴の音に峰の松風通ふらしいづれのおより調べそめけむ」だった。事前に国文学研究資料館で催したワークショップで、和歌の内容について小山が解説した際、マクミラン氏が特に感銘を受けておられたのがこの歌だった。

 「琴の音に…」は、『拾遺和歌集』雑上・ 451に入集する斎宮女御の歌である。詞書には「野宮に斎宮の庚申し侍りけるに、松風入夜琴といふ題を詠み侍りける」とある。斎宮女御の娘である規子内親王が、母と同様に斎宮として伊勢に下ることになった。その際、野宮で精進潔斎を行っていた期間に庚申の夜があった。庚申の夜は寝ずに過ごさなくてはならない。歌を詠んで庚申の夜のつれづれを過ごしたということである。

 さて、この歌の現代語訳を新日本古典文学大系『拾遺和歌集』(小町谷照彦校注、岩波書店 1990年)から挙げると、「琴の音に、峰の松風の音が似通っているように聞える。いったいあの松風は、どの山の尾、つまり琴の緒から、美しい音を奏で出しているのだろうか」。一首の眼目は、琴の音と松を吹き過ぎてゆく風の音が似ている、というところにある。「いづれのおより」の「お」は山の「尾」と琴の「緒」の掛詞となっている。山の尾を、琴の音を立てる緒(糸)に見立て、琴の音に聞こえるような音はいったいどこから発生しているのか、ということを問いかけるのである。

 先に挙げた『拾遺和歌集』の詞書にある「松風入夜琴(松風夜琴に入る)」は、中国の初唐に編纂された『李嶠百二十詠』に収められた「松」の詩の一節である。つまりこの斎宮女御の和歌の「松風の音と琴の音が似ている」という趣向は、中国の漢詩を下敷きにして詠まれたものだった。

 マクミラン氏が興味を示されたのは、琴の音と松風の音が似通っている、という内容とともに、『扇の草子』に描かれた図像だった。この歌の絵として描かれた絵巻の図像は、貴族らしき男が一人琴を弾じている。屋敷の庭には松が描かれている。和歌と合わせて図像を見ると、男が琴を弾じているだけではなく、松風の音と合奏しているのだということが読み取れる。マクミラン氏は、松風の自然の音と、琴の音という人口の音が混然一体となる、等しいものとして捉えるのが、きわめて東洋的であるという感想を示された。

 「デジタル発和書の旅湯とアートが鳴子で出会う」で、マクミラン氏の新訳として「琴の音に…」を取り上げたのは、上記のような視点から、東洋と西洋の違いを解説する上で最適であると考えたためである。マクミラン氏は当日まで、和歌の英訳に推敲を加えておられた。推敲を重ねた訳が、以下のものである。

The notes of the koto
harmonize with pine winds
blowing from the mountain peak.
From which strings, from which ridge-
from where does this concert begin?

『扇の草紙』のマクミラン氏英訳を通じて ―「峰の松風通ふらし」をめぐる断章 ―

なお、マクミラン氏は英訳のポイントを、以下のように説明されている。

「調べ」を直訳するとmelodyかharmonyになるが、melodyだと単独の音の連なり(旋律)を指すことが多く、harmonyだと音楽に限らない「調和」の意味合いが強くなるのでconcert(コンサート)という単語を用いた。concertこそが、自然と人間がともにひとつの音楽作品を生み出すという幻想的な感覚を表現するのにふさわしいと考えた。

 このマクミラン氏の英訳および解説から、はっとさせられたことがある。
「琴の音に…」に見られるような、 Aの音と Bの音が似ている、という趣向は「聞きなし」と呼ばれるものである。「通ふらし」は「似通う」と現代語訳されるし、二つの音の類似という点に注目する。

 しかし、この「琴の音に峰の松風通ふらし」とは、単に「似通っている」というだけではなく、二つの音が呼応し、響き合う様を詠んでいる。二つの音が全く別のものではなく、類似するものだからこそ調和するのだ。『李嶠百二十詠』の「松風夜琴に入る」も、ただ琴の音と似ていて混然一体となる、というだけではなく、松風が夜琴の音に和しているという調和を根に持っているのだと気づかされたのである。

 そのように見てみると、『扇の草子』に描かれた絵の図像は、絵に表わせない音を絵画化する工夫としてだけではなく、この和歌が根本に持つ、自然と人間の調和や、自然の音を音楽として聴く愉悦が表現されているのだと受け取れる。マクミラン氏の英訳のポイントは「concert」という語にある。この語に辿り着くまで、何度も試訳を推敲なさっていた。改めて見直しても、やはり「concert」が相応しいと私には感じられる。

 これまで「琴の音に峰の松風通ふらし」については、漢詩による発想に基づいた技巧・趣向の面に目が向いていた。そうした面は、この歌に確かに認められる。しかしこの歌が詠もうとしているのは、聞きなしといった知的趣向だけではない。「いづれのお(尾・緒)より調べそめけん」には、琴の音と松を吹く風音が奏であうように響きを交わす、自然と人間との合奏を聴きながら、「こんなによく響きあうように、どうやって調律したのだろうか」という感嘆が含まれている。自ら弾く琴の音に寄り添う松風の音に対して、「あら、私に合わせてくれるの?」と面白がり、耳を傾ける。そんな自然と交わす合奏であり、会話がこの歌にはある。この歌が持つ豊かさに気づかされるきっかけが、マクミラン氏英訳の「concert」によって与えられたのは、私にとっても貴重な経験だった。

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