予稿集等
(1)研究調査報告
シンポジウムの予稿集・報告書および新聞企画記事などを紹介します。2021年3月『バチカン図書館所蔵マリオ・マレガ資料 ―概要と紹介―』
2018年3月『2017年度東芝国際交流財団助成報告書』(ローマ日本文化会館との共催研究集会「日本とバチカンの過去から未来をつなぐマレガ文書の世界」報告)
国文学研究資料館紀要アーカイブズ研究篇(プロジェクト関係の論文)
- 特集「マレガ文書の魅力を探る ―マレガ神父・キリシタン統制・村社会―」
(アーカイブズ研究篇第14号、2018年3月) - 特集「キリシタンの跡をたどる ―バチカン図書館所蔵マレガ収集文書の発見と国際交流―」
(アーカイブズ研究篇第12号、2016年3月)
(2)予稿集
2019年10月国際シンポジウム
「マレガ収集日本資料の発見と豊後キリシタン研究の新成果」

予稿集 (PDF:10MB)
2016年バチカンワークショップ
「バチカン図書館所蔵マレガ文書の保存と修復」

予稿集 (PDF:10MB)
2014年シンポジウム
「バチカン図書館所蔵マレガ神父収集豊後キリシタン文書群の魅力」
(日本語版)

予稿集 日本語版 (PDF:2MB)
2014年シンポジウム
「バチカン図書館所蔵マレガ神父収集 豊後キリシタン文書群の魅力」
(英語版)

予稿集 英語版 (PDF:3MB)
(3)出版物
2019年10月

2020年2月

2021年2月

(4)新聞・広報誌
「大分合同新聞」企画連載の紹介
バチカン図書館から豊後のキリシタン関係文書を多数収蔵しているとの情報が2011年にもたらされ、その点数は約1万点にも及ぶことがその後の確認作業を通じて明らかになりつつある。
江戸時代のキリシタン関係文書がこれほどまとまって確認された例はなく、大分県やキリスト教関係者はもちろん、世界の注目する存在となっている。
この文書は、1932~50年まで大分教会に赴任していたサレジオ会の宣教師マリオ・マレガ神父が収集したものである。マレガ神父は、史料集「豊後切支丹史料(正・続)」(1942、46年刊行)の著者としてよく知られているが、史料集に収録された古文書は行方知れずとなり、関係者がその所在を長年探索してきた。未収録の文書が相当量存在したことも、当時のことを知る人々が伝えるところであった。
マレガ神父は、1902年にイタリアで生まれ、ウィーンやトリノで教育を受け、27年に叙(じょ)階(かい)(聖職者に位を授ける)、29年サレジオ大学神学部を卒業、その年のうちに来日した。大分や別府などで伝道に当たりながら、古事記など日本の古典をイタリア語翻訳で初めて紹介した。
さらに、マレガ神父は豊後のキリシタン研究を本格化させ、踏み絵、キリシタン墓地に関する論文を日本とイタリアで発表した。墓地研究は、大分各所を実際に調査し論文にまとめたもので、おそらく本格的な豊後のキリシタン墓地研究はマレガ神父に始まるといってよかろう。また、豊後のキリシタンの歴史を世界に紹介してくれた最初の人ということになる。
バチカン図書館での文書調査は6年計画で実施し、その成果に基づき全ての古文書の画像はインターネットで誰もが利用できることを目指す。
願わくば、現在、大分の地域に残される古文書類がしっかりと保存され、誰もが利用できるようになることを期待したい。バチカン図書館が全面的な公開を認めてくれたが、日本に現存する古文書類が保存されなかったり、公開されないという状況になることは、大変残念なことである。
バチカン図書館に存在する古文書類は、戦前・戦中に旧所蔵者が手放したものをマレガ神父が歴史文化的な価値の重要性に鑑み、これを収集して、戦火などを避けて本国に送ったものである。
自らの歴史や文化に関わる記録をいかに後世に伝えるのか、マレガ神父収集文書の存在は、それを問い掛けているように思われるのである。
(マレガ・プロジェクト代表、国文学研究資料館教授・大友一雄)
※ このページの記事は、大分合同新聞に掲載された記事を元に、研究の進展に応じて修正等が加えられています。記事掲載にあたり、中心となって活動した大分先哲史料館と大分合同新聞からの了解を得て作成されています。肩書はすべて当時。
カトリック教会の溝部脩さん(別府市出身)が大分教会の神父らとともに県立先哲史料館を訪ねてきたのは、2011年8月18日の昼すぎだった。当時、溝部さんは高知市に在住し、高松教区の司教という重責を担っていた。
溝部さんと県立先哲史料館は、県立先哲叢書『ペトロ岐部カスイ』作製で交流がある。開口一番、溝部さんは「マリオ・マレガ神父が収集した大分のものと思われる史料がバチカンで見つかった。バチカンの関係者がその詳細を調べてほしいと言っている。一緒に確認に行かないか」と述べた。振り返るとこれが「マレガ・プロジェクト」の第一歩だった。
12年2月19日、溝部さんと大分教会の神父坂本要さんに案内いただいて、県立先哲史料館から私と村上博秋主任研究員の2人で、バチカンに向けて予備調査に出発した。その結果、バチカンに所在する史料は臼杵をはじめとする大分のキリスト教に関するもので、マレガ神父が「豊後切支丹史料(正・続)」を執筆するために使用した史料がそれぞれ束になって残されていることが確認された。そして、もっと驚いたことには、それ以外にもざっと10倍の規模の史料があり、それらはこれまで全く公開されていない史料群であろうと考えられた。
調査の最終日、バチカンで図書・史料を統括する立場にあったラッファエレ・ファリーナ枢機卿と史料調査の方向について協議する機会を得た。ファリーナ枢機卿は溝部さんの学友であり、この史料の調査依頼の発信者でもあった。ファリーナ枢機卿からは別れの際に「皆さんの調査のおかげで日本のキリスト教史に関する極めて貴重な史料群であることがわかった。早いうちにまた会いましょう。(この史料の調査・整理について)話し合うためにまた来てくれないか」という言葉を頂いた。
この予備調査がきっかけとなって、大分はもちろんのこと日本の問題として取り組むべく、バチカン図書館メンバーも含めて、「マレガ・プロジェクト」(人間文化研究機構「日本関連在外資料調査研究事業」)が発足したのである。
(前大分県立先哲史料館長、平井義人)
※ このページの記事は、大分合同新聞に掲載された記事を元に、研究の進展に応じて修正等が加えられています。記事掲載にあたり、中心となって活動した大分先哲史料館と大分合同新聞からの了解を得て作成されています。肩書はすべて当時。
2013年9月16日、バチカン図書館において、「マレガ・プロジェクト」の第1回概要調査がスタートした。日本からの参加者とバチカン図書館の担当職員との合同調査である。
マリオ・マレガ神父収集文書は防虫措置が施され、21袋に収められていた。今回は、このうちの3袋(A1~A3と呼称)を5日間で調査することとし、現状の写真記録と今後の史料管理にも利用できる基本データ作成を主眼とした。
作業はまず、袋から史料群を取り出し、史料一点毎に番号を付与し、写真を撮影。この写真は、調査段階での史料の現状を伝える唯一の情報となる。そして保存管理のために用意した封筒や包材に史料番号を記入し、その番号に基づいて、形態、保存状態、言語、概要などの基礎データを調査票に記入していく。
虫損が激しい史料など取り扱いに注意を要する史料は調査票にメモしておく。ここまでが日本側の作業。続いて、バチカン図書館職員が、個別の史料に番号を記入し、図書館の登録簿に登載するとともに、保存用の箱に収納するという流れだ。
写真:バチカン図書館での第1回概要調査の作業風景(2013年9月)
第1回概要調査で基礎データを整理した史料は約1500点。A1は、『豊後切支丹史料(続)』に使用した史料が中心であり、原稿や校正ノートも含まれていた。A2は、『豊後切支丹史料(正)』に使用した史料が中心だった。これらの史料は『豊後切支丹史料(正・続)』所収史料の原文書であり、部分的にしか活字化されていない史料もあることから、全体的な再検討が求められる。
A3は、マレガ神父による整理番号が記されていない史料群で、内容的には江戸時代に臼杵藩宗門方が管理していたと考えられる史料が中心だった。基礎データを作成したこれらの史料は、今後バチカン図書館において1点ごとのデジタルデータが作成され、それに基づいて日本で目録化を進めていくことになる。
第1回概要調査を踏まえて、2014年度から、マレガ神父収集文書の調査・研究を進める「マレガ・プロジェクト」が本格的に始動する。
(大分県立先哲資料館 館長・佐藤晃洋)
※ このページの記事は、大分合同新聞に掲載された記事を元に、研究の進展に応じて修正等が加えられています。記事掲載にあたり、中心となって活動した大分先哲史料館と大分合同新聞からの了解を得て作成されています。肩書はすべて当時。
江戸幕府のキリシタン政策により、キリシタンから改宗した者は「転びキリシタン(本人)」、その子孫は「類族」と呼ばれ、彼らは幕府や藩の監視下に置かれていた。縁組、離別、出家、住所変更、出生、死亡などについて、村役人や檀那寺は役所に届け出をしなければならなかった。
第1回概要調査で調査対象とした史料群の中には、類族に関する臼杵藩の宗門奉行宛ての文書が多く含まれていた。
例えばサンプルとして撮影した史料は、於牟連村(臼杵市)の3歳の清八の天然痘による病死について、1728(享保13)年5月16日に臼杵藩の宗門奉行に村が提出した文書である。清八の「高曽祖父(曽祖父の祖父)」が「転びキリシタン」であったため、「類族」として清八の死亡に関して届けを提出しなければならなかった。
村が提出した類族の死亡届には、清八が死亡した事実とともに死骸に特別異常はなかった旨が記されており、村役人である庄屋と弁指、清八の家族が含まれる「五人組」の連署で作成している。
この文書には、清八の檀那寺である黍野村(同市)の了仁寺の住持が作成した同様の趣旨の文書も添えられていた。類族の死亡に関しては病死であっても、村役人や五人組、檀那寺の住持らによる検視が行われていた。藩の宗門方は、村と檀那寺が作成した文書を、一対の文書として整理・管理していたようである。
このような臼杵藩を中心とする豊後地域の史料が、マリオ・マレガ神父収集文書の大部分を占めていると考えられる。江戸時代を通して特定の地域のキリシタン政策に関する史料が多数含まれていることから、政策の細かな実施方法などを長期にわたって検証できるとともに、江戸時代の人々の生活をさまざまな視点から掘り起こしていけるだろう。
地元に残っている古文書などの史料やキリシタン関係の遺跡・遺物とともに研究することにより、江戸時代の大分をより具体的・多角的に見ていくことができると考える。
2014年度からは、マレガ神父収集文書の概要調査とともに、史料1点ごとの撮影が始まる。このデジタルデータをプロジェクト終了後には公開し活用していけるようにしたいと考えている。そして「マレガ・プロジェクト」が、多くの方々が郷土の歴史や文化に興味・関心を抱くきっかけになればと願っている。
(大分県立先哲資料館 館長・佐藤晃洋)
※ このページの記事は、大分合同新聞に掲載された記事を元に、研究の進展に応じて修正等が加えられています。記事掲載にあたり、中心となって活動した大分先哲史料館と大分合同新聞からの了解を得て作成されています。肩書はすべて当時。
バチカン図書館において発見されたマリオ・マレガ神父収集豊後キリシタン文書群の概要調査は、これまでのところほぼ順調に進展しつつある。昨年11月1日、臼杵でのシンポジム「マレガ神父収集豊後切支丹文書群の魅力」では、バチカン図書館パシーニ館長、研究員のデリオ・ヴァニア・プロヴェールビオ氏を日本に招き開催することができた。両人には、日本そして大分に大いに親しんで頂いたように思われる。これらも弾みに調査・研究をさらに進展させたいと念じている。
とくに今年9月には、バチカン市国においてシンポジウムを開催予定である。大分臼杵に続いて、バチカンやイタリアの方々にも、この文書群の重要性を伝えたい。プロヴェールビオ氏は、マレガ神父自身の意向によって、1953年に文書群がバチカンに送られたことを明らかにした。理由は詳らかでないが、キシシタン研究を続けたマレガ神父の判断ということであれば、少なくとも文書群の価値は、日本にとどまらず欧州社会においても共有できると考えられたものであろう。つまり、豊後のキシシタン文書群は、その価値を世界の人々と共有できる存在と捉えたことになる。文書群が大分に伝えられなかったことは残念であるが、バチカンにあることを積極的に考えることも重要ではなかろうか。たとえば、欧州からのキリスト教の伝播と世界の国々の動向を比較するといったなかでは豊後のキリシタン文書群が大きな価値を発揮するに違いない。
このキリシタン文書群の価値を、また、文書がバチカンに大量に存在することを欧州の人々、世界の人々に伝える必要があろう。シンポジウムの実施はそのような意味がある。マレガ神父はイタリア語で江戸時代のキリシタン禁制、踏絵、キリシタン墓地などについて論文を発表してきた。豊後のキシシタン禁制に関する具体的な歴史を世界に伝えた最初の人である。
バチカン図書館の人々とともにキシシタン文書の調査・研究を行うことは、マレガ神父のそうした研究を継承することになり、豊後のキリシタン文書群を世界共有の記録遺産に高めることになる。9月のバチカン・シンポジムでは、是非日本からも多くの人に参加していただければと考えている。
(マレガ・プロジェクト代表、国文学研究資料館教授・大友一雄)
※ このページの記事は、大分合同新聞に掲載された記事を元に、研究の進展に応じて修正等が加えられています。記事掲載にあたり、中心となって活動した大分先哲史料館と大分合同新聞からの了解を得て作成されています。肩書はすべて当時。
マレガ神父収集文書群はバチカン図書館で21袋に分けて保存されてきた。それは基本的にはマレガ神父自身が作ったまとまりに基づくものと考えられる。
今回のプロジェクトではその全てについて、(1)概要調査(袋を開き、現状の写真を撮りつつ、全ての史料に番号を付けて、史料の形や大きさ、虫食いや破れなどの保存状態、マレガ神父によるメモや番号などの情報を記録する)(2)保存措置(今後の保存のため適切な袋や容器に入れ、必要な修補を行う)(3)保存・公開のためのデジタル画像撮影(4)史料1点ごとの内容を含めた基本情報を記した目録の作成―を行う予定である。
これまでに調査した11袋には、三つの段階のものがあった。一つ目はマレガ神父が出版した「豊後切支丹史料」(正・続)に関係する2袋である。正・続2冊に収録された史料や原稿などに関係する史料が、それぞれ一つの袋にまとめられていた。
二つ目はマレガ神父が番号を付与し、同じ書式の史料を集めるなど、ある程度整理・分析を行っていた史料(7袋)である。「きりしたん(宗門)御改に付起請文前書之事」(キリシタンでないことの誓約書)、「宗門御改に付家内人数之覚」(宗門改の基礎情報となる藩士の各家の人数届)など藩内各所が提出した同じ表題の文書が多数そろっていた。
三つ目はマレガ神父が入手した後、十分に整理・研究するに至らなかった史料であり、当時の洋服屋の箱2箱にびっしりと古文書が詰め込まれている様は壮観であった。
史料の入手経緯・出所はさまざまであるが、現在まで出てきたものは臼杵藩の藩庁に保存されていたと思われるものが大半である。これは今回の発見の一つである。これらの文書を整理することで藩の宗門方がどのように文書を作らせ、集め、保管していたのか、宗門改の仕組みや文書管理の仕組みを具体的に見ることができる。
同じ年に提出された史料がまとまって保存されていることで、ある時期の藩全体の状況をつかめる可能性も出てきた。藩の組織や藩士の編成などについても新たな情報が得られよう。
キリシタン改に関わる史料のみの収集とはいえ、大量の史料が網羅的に集められていることで、さまざまな
視点からの分析が可能になるものと期待される。
(東京大学史料編纂所教授・松井洋子)
※ このページの記事は、大分合同新聞に掲載された記事を元に、研究の進展に応じて修正等が加えられています。記事掲載にあたり、中心となって活動した大分先哲史料館と大分合同新聞からの了解を得て作成されています。肩書はすべて当時。
概要調査を進めていく中で、キリシタン禁制政策開始期である17世紀前半の史料が散見された。
例えば、1646(正保3)年の「きりしたん宗門重而御改ニ付五人組御書物之事」がある。島原・天草一揆以後、幕府によりキリシタン禁制政策がさらに強化される中で、臼杵藩がそれまでの「拾(十)人組」を「五人組」として再編するとともに作成させた文書である。
サンプルとして撮影した「きりしたん宗門重而御改ニ付五人組御書物之事」の8月16日付文書を見ると、池原村(臼杵市)1軒と寺小路村(同市)4軒で編成された五人組がキリシタン禁制に関して守るべき5項目を記して、5軒の当主が署名押印している。そして家ごとに檀那寺(檀家の所属する寺)が檀家であると署名押印して証明した文書を貼り付けている。家内に檀那寺が異なる者がいる場合は、それぞれの檀那寺からの証明をもらっている。
5軒目の寺小路村善吉の場合は、2人が戸次(大分市)妙正寺の檀家、4人が野津(臼杵市)普現寺の檀家であると、それぞれの寺が証明した文書を重ねて貼り付けていて、5軒合計30人の証明となっている。
写真:1646(正保3)年の「きりしたん宗門重而御改ニ付五人組御書物之事」。この五人組の中には転びキリシタンとして、1614(慶長19)年に転んだ1人、1622(元和8)年に転んだ2人が含まれている。
「きりしたん宗門重而御改ニ付五人組御書物之事」は臼杵藩におけるキリシタン禁制政策や五人組制度、寺請制度を考える上で画期を成す文書だといえる。藩の宗門方は、提出された文書をキリシタン禁制関係の基礎台帳的なものとして保管していたと考えられる。同様の史料がマレガ神父収集文書群には約100通含まれている。
臼杵藩におけるキリシタン禁制に関する文書としては、現在臼杵市には一部の村などに残る写しと藩の御会所(家老らの協議の場)で議題とされた記録以外には、ほとんど文書が残っていなかった。
マレガ神父収集文書群には、村などから提出されて藩の宗門方が保管していた文書が多数含まれていることから、この文書群の調査研究が進んでいくことで、臼杵藩におけるキリシタン禁制に関するさまざまなことが具体的に明らかになると考えられる。
(大分県立先哲資料館 館長・佐藤晃洋)
※ このページの記事は、大分合同新聞に掲載された記事を元に、研究の進展に応じて修正等が加えられています。記事掲載にあたり、中心となって活動した大分先哲史料館と大分合同新聞からの了解を得て作成されています。肩書はすべて当時。
臼杵市野津町原にある下藤地区キリシタン墓地は、2013年に県史跡に指定され、
注目を集めている。「日本史」を著した宣教師ルイス・フロイスによると、野津に
キリスト教が広まったのは1578(天正6)年からで、初期の中心人物は「リアン」であった。
「日本史」の中でリアンは「自宅だけで120名以上の者をかかえ」「邸内に教会を
建て」、さらに「教会の上方にある山の適当な場所に広場を造り、そこに1基の美しい十字架を建て」「その近くにキリシタンを埋葬するため、広く良く整った墓地を造った」と紹介されている。
写真:「豊後国大野郡野津院御検地帳」には地名、地目、等級、面積、石高、貢納責任者名が書かれている。「同人」と書かれているのも理庵であり、田畑を多く所有していることが確認できる。
一方、97(慶長2)年の「豊後国大野郡野津院御検地帳」によると、下藤村の村高(村の公定生産高)は約191石で、屋敷地を持つ者は15人であった。その中に名前が「理庵」と記され、村高の5分の1ほどに当たる36石余りを1人で所有する者がいる。1反8歩(308歩、太閤検地では1歩=約3・65平方m)の屋敷地を持ち、所有する田畑は35反以上に及んだ。
さらに理庵の田畑や屋敷推定地の上方には山があり、そこには下藤地区キリシタン墓地が所在する。またリアンの居住地の対岸に仏教勢力があったというフロイスの記述も下藤地区の景観に合致する。
フロイスが紹介したリアンは、下藤村に居住した理庵であり、下藤地区キリシタン墓地はリアンを中心に営まれていたと考えられる。ただし同村で屋敷地を持つ15軒の信仰状況など不明な点は残る。
マレガ神父収集文書群に多数残されている1635(寛永12)年「きりしたん宗門御改ニ付起請文前書之事」の調査・研究が進めば、禁制の動向とともに近世初頭の起請文を提出した家の構成を確認することができる。
また、同文書群に含まれる類族(キリシタンの子孫)の生死に関する文書には、先祖のことも記されていた。これまでに分かっている宣教師の報告と大分に残る史料の研究に、同文書群の研究が加わることによって、豊後におけるキリスト教の布教から禁教下までのおぼろげな部分が鮮明になっていくと期待される。
(県立先哲史料館主幹研究員、東京大学史料編纂所共同研究員・大津祐司)
※ このページの記事は、大分合同新聞に掲載された記事を元に、研究の進展に応じて修正等が加えられています。記事掲載にあたり、中心となって活動した大分先哲史料館と大分合同新聞からの了解を得て作成されています。肩書はすべて当時。
国文研ニューズ(プロジェクト紹介記事)
※各論文をクリックすると、掲載号のpdfファイルがダウンロードできます。
- マレガ文書解読のためのくずし字教材・教授法の開発と交流 大友 一雄 国文研ニューズ No.57 SUMMER 2020、10頁 (PDF:3MB)
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マレガ・プロジェクト国際シンポジウム
「マレガ収集日本資料の発見と豊後キリシタン研究の新成果」の開催 大友 一雄 国文研ニューズ No.56 WINTER 2019、11頁 - バチカン図書館所蔵マレガ文書から広がる国際的共働と日本近世文書の国際的活用 高見 純 国文研ニューズ No.55 SUMMER 2019、8頁
- マレガ・プロジェクトでの共同研究と、バチカン・イタリアからの招聘旅行を終えて 高見 純 国文研ニューズ No.53 AUTUMN 2018、7頁
- バチカン図書館所蔵マリオ・マレガ収集文書群の調査と活用 ローマでのくずし字講座と講演会の開催について 三野 行徳 国文研ニューズ No.50 WINTER 2017、11頁
- 〈日本バチカン国交樹立75周年〉 研究集会「バチカン図書館所蔵切支丹関係文書の魅力を探る」 大友 一雄 国文研ニューズ No.49 AUTAMN 2017、8頁
- 統制と文書保護から「マレガ文書」の基層を探る 湯上 良 国文研ニューズ No.47 SPRING 2017、6頁
- 和紙を愛でる:古文書修復技術の融合 ―マレガプロジェクト・ワークショップ― 湯上 良 国文研ニューズ No.46 WINTER 2017、4頁
- マレガ・プロジェクトシンポジウムinバチカン「キリシタンの跡をたどる」 三野 行徳 国文研ニューズ No.42 WINTER 2016、8頁
- 海を渡った豊後キリシタン史料―マレガ・プロジェクトの概要― 大友 一雄 国文研ニューズ No.38 WINTER 2015、12頁