当該共同研究は、2022年4月より3か年計画でスタートした。
メンバーは小林(研究代表者)・宇野日出生氏・盛田帝子氏・松中博氏・大山和哉氏・雲岡梓氏・宮武衛氏・渡辺悠里子氏、国文研から神作研一氏、中西智子氏が参加した。
完成年度には京都市歴史資料館寄託山本家資料展「賀茂季鷹と古典の「知」」(2024年10月19日~11月24日)を京都歴史資料館(以下「京歴資」)にて開催、会場で配布した展示リーフレット(カラー版)に、研究の成果を盛り込み、公開した。
会期中はメンバーによるギャラリートークも行われた。京歴資の公式発表では、市民を中心に来場者は2750名にのぼった。
振り返れば、国文研に勤めていた小林健二氏から小林あてに、京歴資に寄託されている山本家所蔵資料を、盛田氏と万波寿子氏と3名で調査してほしいとメールが届いたのは、2011年3月のことだった。居住地も職場も離れていた3名だったが、当時、京歴資に勤務していた宇野氏と連絡を取りながら調査を進め、2016年10月、1332点の資料のほぼすべてをカードに収めて終了した。
その後、小林健二氏から担当を継いだ神作氏と小林の間で、この調査カードを台帳にデジタル撮影、そして本格的な研究ができたら、という話がたびたび交わされた。しかし2019年度に起こった新型コロナのパンデミックにより、社会活動は大きく制限され、移動を伴う古典籍の地道な研
究には厳しい時期が続いた。
2021年、盛田氏が小林の勤務校に着任したことで、共同研究の気運が一気に高まった。ただし山本家所蔵資料は重要文化財「清輔本片仮名古今和歌集」をはじめ、その多くが京都市の指定文化財である。立川の国文研に移送しての撮影は、困難だと思われた。
けれども、山本家ご当主山本義浩氏のご理解、京歴資館長の井上満郎氏のご高配、そして学芸員の松中博氏の尽力により、移送・撮影が許された。デジタル画像による研究がどこからでも自在に行える道が拓かれたのである。こうして、天の時・地の利に人の和も得て、研究体制が整った。
初年度の2022年、まず全員が京歴資に足を運び、原本の調査を実施した。古典籍への知見を深めるために、今治市河野美術館にお願いし、集中的に鎌倉・南北朝期の古写本を閲覧する贅沢な合宿勉強会も行った。三手文庫や下鴨神社にもそれぞれで足を運び、また関連する書物の調査のために各地へ赴いた。
獲得された知見は、毎年秋の「賀茂社家古典籍セミナー」で公開した。3回のセミナーでは、すべてのメンバーが講師をつとめたほか、ゲストとして賀茂県主同族会の山本宗尚氏を招聘し基調講演「三手文庫の設立と蔵書の変遷」をお願いしたこともあった。
3年間の共同研究を通じて国文研ならではの、得がたい経験もあった。2つほど紹介したい。
1つは、毎年夏に行われる、複数の共同研究のメンバーが立川で一堂に会し、互いの進捗状況やその時点での成果を共有しあう合同研究会での出来事である。松野文庫の共同研究に便乗して蔵書を披見する恩典に恵まれた。偶然、版本の二十一代集を手に取ってみると、びっしりと書入れがある。おや? 見覚えが、と階下で紙焼写真を参照すると、はたしてその書入れは、三手文庫蔵今井似閑奉納本の契沖書入れの忠実な写しであった。急遽、午後の小林の報告はホットな発見に変更された。
2つめは正宗文庫の共同研究に皆でお邪魔して、岡山に出かけた折のこと。蔵書調査中の小川剛生氏が手元のエクセルデータから「季鷹」を検索、ヒットした何点かを運んでくれた。
その中に古今和歌集(正徳3年刊本)があった。剥落した後見返しの裏面に敦夫の和歌の師、松浦辰男の朱筆識語が記され、明治29年に山本邦保(季鷹子孫)から「清輔本片仮名古今和歌集」を借出したとある。
直ちに国文研の国書データベースにアクセス、京歴資寄託の当該本の画像と比較してみると、本文の校異、朱墨の書入れ、堪物まで細大漏らさず辰男が書き写していたことが確かめられた。
季鷹は蔵書を惜しみなく貸し出しており、貸出簿にあたる「歌仙堂書籍出納録」は展示の目玉、いわば上賀茂私設図書館である。その季鷹の精神は明治時代の子孫にも、受け継がれていたことになる。
しかし展示リーフレットは完成し特別展まで1か月しかない。松中氏と相談し、パネル展示で、と決める。翌日の岡山県立博物館でのセミナーの席上、神作氏が正宗千春理事長にお願いすると口頭で許可が下りた。こうして辰男の識語を引き伸ばしたパネルが、「清輔本片仮名古今和歌集」の陳列ケースの壁面を飾ることになったのである。
国文研でなければできない地域資料の共同研究、実に有意義で楽しい3年間だった。
小林 一彦(京都産業大学教授)
