専門が近代文学なので、それに関するトピックになることをお許し頂きたい。
おそらく「近代文学」と他の時代のそれとを区別する大きなポイントは、形態的には活字と原稿用紙にあるのではないかと思う。むろん、活字は中世からあるし、江戸期の自筆稿本なども残ってはいる。しかし近代という時代ほど作家の直筆原稿が多く現存し、抹消跡や書き換え跡も含め、活字との間の試行錯誤を検証することのできる時代はほかにはないだろう。おそらく後世から見たとき、1980年代のワープロの普及以前と以後との間に、「近代文学」とそれ以降の文学との大きな境界線が引かれることになるのではないだろうか。
問題はこの百数十年に及ぶ「原稿用紙の時代」を、一個の文化資産、さらには研究対象としてどのようにアーカイブ化していくか、という点にあると思うのだが、実はこの点に関しては、まだ、すべてが渾沌としたスタートラインにあるというのが実情なのである。
その意味でも本館がかつて「近代書誌・近代画像 DB」を立ち上げ、2022年にかごしま文学館の島尾敏雄直筆原稿の画像をアップした事業には大きな意義があったと思う。地方の文学館が自前でデジタル化、オンライン化を進めるのは困難で、それにプラットフォームを提供するという、画期的な試みだったわけである。
その後、中原中也記念館の直筆原稿(2023)、武者小路実篤記念館の自筆資料(2024)などがアップされ、これらは昨年の春に「国書DB」に統合され、現在に至っている。
ここで一つ要望を記させて頂きたいのだが、現在の「国書 DB」では、明治以降の作家の直筆資料について、そもそもどのようなものが収載されているのかという一覧を見ることができない。
トップページから該当資料にたどり着くこと自体がなかなか困難で、事実上、宝の持ち腐れになってしまっているのである。このデータベースは当然のことながら古典籍であることが前提に作られていて、明治以降の資料に関しては明らかにユーザーズインターフェイスに問題があるようだ。
冒頭に記したように、近代の直筆資料はそれ以前の時代のものと大きく異なる特色を持っているので、せめて「自筆原稿」という検索項目を作って利用できるように改良して頂きたいものである。
そもそも近代の直筆資料のデジタル化が一般に注目されるようになったのは2010年代になってからで、この時期、作家で言えば中島敦、小林多喜二、太宰治など、また、瀧田樗陰(「中央公論」編集長)、山本実彦(「改造」社主)のコレクションなどが次々に CD ロム化、あるいはオンライン化されて売り出されたのである。だが、値段も高額で、オンライン化された商品も、普及率はごく限られたものだったようだ。大変有益な事業ではあったけれども、そもそも公共性、という観点から、個別の商品化には馴染まぬものなのだと思う。
先に、文学館が自前で自筆資料をオンライン公開することは難しいと述べたが、それでもここ数年、県立神奈川近代文学館で夏目漱石、中島敦をはじめとする資料が、また山梨県立文学館で芥川龍之介、樋口一葉、太宰治の自筆資料の画像が無償で公開されるなど、ここにきて、さまざまな試みが実践され、事態は大きく進展しつつある。だが、たとえば美術館関係の資料に比べると文学館関係の資料のデジタル化、オンライン化はまだ大きく後れを取っており、それが国際的、学際的な研究の立ち後れる要因の一つにもなっているのではないかと思う。
そもそも直筆資料というのは一部の好事家や個人のコレクターが私蔵するところから出発した経緯があり、まずは公共機関に収蔵されている資料を一覧、あるいは検索できるデータベース作りをすることが急務であろう。たとえば全国文学館協議会のような組織が主体となって、国文学研究資料館がその作業をアシストしていくような形がとれないものだろうか。
10年かけて行われた古典籍の巨大なプロジェクトに比べればあまりにささやかな次元だが、いずれは本館、あるいは資料の総元締めともいうべき日本近代文学館、さらには国立国会図書館などが大同団結し、国家的な事業として、この百数十年に及ぶ文化資産をアーカイブ化していかなければならないのだと思う。
安藤 宏(国文学研究資料館運営委員、東京大学名誉教授)
