文部科学教育通信「国文学研究資料館──古典への誘い」

袖岡玄蕃助家記

地下官人とは明治時代最初まで存在した朝廷に仕える下級官人のことで、朝廷儀式への出仕や儀式調度品の調達などを担った社会集団である。最も多かった江戸時代末期段階で1090名の地下官人が朝廷に奉仕した。地下官人は3種類に分けられ、地下官人を統括する三家の「催官人(もよおしかんしん)(地下官人之棟梁)」、代々地下官人を勤める「並官人」、朝廷儀式のときにのみ地下官人となる「下官人」がいた。このうち「下官人」は京都の町人や周辺村落の農民などである。

 

今回紹介する袖岡玄蕃助家記(そでおかげんばのすけかき)(以下、家記と略す)は袖岡文景という江戸時代後期の地下官人の日記である(全6冊)。袖岡家は上南座(かみのうざ)と蔵人所衆という役職の地下官人であった。上南座は朝廷儀式で夜の掛け灯台や年末の煤払いの箒柄を調進する役、蔵人所衆は朝廷儀式に参加する蔵人という役職の公家に付き従う役職である。しかし、当時の地下官人のほとんどはそれのみを生業としていたわけではない。袖岡家の場合も公家の勧修寺(かじゅうじ)家の家臣を務めていた。家記には、朝廷儀式での出仕や調度品調進の記事も見えるが、最も多いのは勧修寺家家臣としての記事である。

この勧修寺家という公家は朝廷の実務官僚である蔵人頭を数多く輩出し、若くして公卿に昇進している家である。江戸幕府と朝廷とのパイプ役である武家伝奏を務めた当主が3名もいる、江戸時代の朝廷運営を担った公家の一家といえよう。袖岡文景が家記を書いていたときの勧修寺家当主は顕彰(あきてる)という人物で、武家伝奏勧修寺経逸(つねはや)の養子となった。実父は経逸の息子である坊城俊明。この人物も武家伝奏を務めており、顕彰は華麗なる一族の御曹司というわけだ。

しかし、弘化4年(1847)家記には袖岡文景の苦悩がしばしば書かれている。顕彰が前年の秋から朝廷に出仕せず、朝廷儀式に勤仕しなくなってしまったのである。そして正月9日真夜中、文景が自宅で寝ていると勧修寺家の番士が血相を変えてやって来た。さらには勧修寺家の姫君やら一族やらもやって来た。話を聞くと、顕彰が酒の席で暴れ出し、ついには「剣劇之騒動」、すなわち抜刀して襲い掛かったようだ。その後、文景は顕彰に対して諫言を述べ、顕彰も改心して朝廷に出仕するが、再び自宅に籠ることとなってしまった。そして、関白から全ての官職から引くよう命じられた。文景の落胆がうかがえよう。

(西村慎太郎)

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文部科学教育通信2026年2月9日掲載記事より