俳諧、川柳

江戸前期

俳諧(貞門)

寛永10年(1633)に最初の俳諧撰集『犬子集』が刊行されると俳諧は一気に流行します。貞門は松永貞徳を中心とする一派の総称で、俳諧を「俳言を以て作る連歌」と規定し、言語遊戯による微温的な俳風を旨としました(おおむね中本か横本)。主要俳人は安原貞室・松江重頼ほか。談林との対立期を経て衰えますが、細々とした命脈を天保期(1830‐44)まで保ちました。

俳諧(談林)

談林は大坂天満宮の連歌所宗匠西山宗因を中心とする一派の総称で、寛文末年(‐1673)頃に誕生、俳諧を「寓言」と規定して、破調や字余り、極端な擬人法などを旨とした猥雑かつ奔放な俳風で一世を風靡しました(横本が多い)。速吟による矢数俳諧は特に有名です。主要俳人は井原西鶴・岡西惟中ほか。延宝末年(‐1681)頃には衰退、流行はわずか10年ほどでした。

俳諧(芭蕉)

貞門・談林を経験した松尾芭蕉は、貞享元年(1684)、41歳で蕉風に開眼(『冬の日』)、以後は旅を続けながら句境を深めてゆきます(『笈の小文』ほか)。元禄期(1688‐1704)には「不易流行」を提唱(『おくのほそ道』/枡型本)、俳風は一段と円熟味を増し最晩年には「軽み」を主唱しました。主要門人は向井去来・野沢凡兆ほか(蕉門の撰集はおおむね半紙本)。

江戸中期

俳諧

享保期(1716‐36)における江戸座の組織化や美濃派の拡大を経て、徐々に芭蕉復古の機運が醸成されます。安永・天明期(1772‐89)になると、与謝蕪村(京)・加藤暁台(名古屋)らが登場して天明俳諧(中興俳諧)が開花、文人趣味に基づいた唯美的世界を示しました。絵師でもあった蕪村は、文人画だけでなく、『奥の細道画巻(ほそみちえまき)』など俳画(はいが)にも大きな足跡を遺しました。

川柳

川柳は、雑俳で前句が省略されたもの。俳諧の発句と同じ「五・七・五」の十七音ですが、季語と切字が不要で、俳諧よりもいっそう大衆性が強く、人情や世相を機知的に詠います。創始者は柄井川柳。明和2年(1765)に刊行が始まった『誹風柳多留』(百六十七編)はその代表的作品です(小本)。「六歌仙 六をかけても 歌仙なり」(同書三十三編)、こんな調子です。

江戸後期

俳諧

寛政4年(1792)の芭蕉百回忌を機に芭蕉の神格化が進み、俳諧は一気に大衆化・低俗化に向かいます。天保俳諧の中心には成田蒼虬や桜井梅室がいましたが、他方、農村出身の小林一茶(信濃)は独自の作品を遺し、その人間味溢れる生活詩は異彩を放ちました。月並俳諧は隆盛を極めましたが、それはやがて明治に至って正岡子規から月並調として激しく批判されました。

明治時代初期

和歌・俳諧

和歌は、明治20年代までは桂園派を中心とする旧派の支配下にありました。宮中の御歌掛の歌人高崎正風がその領袖です。俳諧は目立った作者はいませんが、江戸時代から引き続き一般の間に盛んで、撰集も多数刊行されています。中には新時代の事物・風俗を題材にして新味を出した作も見られますが、概して発想や表現が画一的で、後に正岡子規により、天保以後の俳諧は一括して「月並調」と批判されることになります。