歌謡、能・狂言、浄瑠璃、歌舞伎

平安時代初期

歌謡

平安時代初期頃に成立したと推定される歌謡として、神事、特に宮中の御神楽で用いられる神楽歌、諸社の神事で舞われた東遊(東国風の舞)に伴う東遊歌、地方民謡である風俗歌、民謡の歌詞に雅楽風の節付けをした催馬楽があります。和琴の伴奏で歌われる琴歌を収録した『琴歌譜』も、この時期に成立しました。

院政期

歌謡

平安時代中期頃に起こった新しい歌謡である今様は、やがて貴族階級にも流行が及びました。後白河院撰の『梁塵秘抄』は、今様を初め「雑芸」と総称される流行歌謡を集大成したものですが、多くの巻が散佚し、一部の巻のみが伝わっています。宗教的な歌謡のほか、庶民の生活や心情を歌った歌謡も多く、広く親しまれています。平安時代後期以後、長編の仏教歌謡である和讃も多く作られました。

鎌倉・南北朝時代

歌謡

東国の鎌倉では、前代の今様をうけて、七五調を主とした早歌(宴曲)と呼ばれる長編の歌謡が武家の間で愛好されます。拍子が早いために早歌と名付けられ、芸能者ではなく、武士が自分で歌う歌として作られました。『源氏物語』などの古典のほか、仏典や漢籍を出典とし、武士の教養の向上にも役立ちました。早歌の大成者である明空の撰んだ『宴曲集』が知られています。

室町・安土桃山時代

歌謡

室町時代になると、宮廷歌謡の大歌に対し、七五調をもとにした自由な詩型の小歌が流行します。男女の恋愛をうたったものが多く、話し言葉なども取り入れられ、庶民の感情を生き生きと伝えています。『閑吟集』や『宗安小歌集』といった小歌の歌集も編纂され、なかには能や狂言、お伽草子の詞章とよく似たものも多く、互いに影響を与えていたことがうかがえます。

能・狂言

平安時代までの猿楽や田楽は演劇色を強め、専門の芸能集団(座)も現れ、有力な寺社に所属しました。大和猿楽四座のうち、結崎座に出た観阿弥・世阿弥親子は、能の台本である謡曲の作者として、また能役者としても優れ、能を芸術として大成します。一方、庶民的な喜劇である狂言は、社会風刺や権力批判を込めて口語で演じられ、やがて能と能の間に上演されるようになります。

幸若舞曲・説経

室町後期になると、物語に合わせて舞われた幸若舞(曲舞)や「ささら」という楽器に合わせて語られた説経節など「語り物」の芸能が流行します。幸若舞は『義経記』や『曾我物語』などに取材したものが多く、武将の間で人気を博しました。「山椒大夫」や「小栗判官」など新たな迫力のある物語を生み出した説経節は、民衆の心をとらえ、近世の浄瑠璃の源流となりました。

江戸前期

演劇(近松)

古浄瑠璃の時代を経て元禄期(1688‐1704)が近づくと、近松門左衛門が登場します。想像力溢れる時代物(『世継曾我』『国性爺合戦』)、人間の生の悲しさを情感豊かに描いた世話物(『曾根崎心中』『心中天の網島』)など、多くの浄瑠璃を遺しました。実とも虚とも言い切れない微妙な表現こそ初めて人を感動させられるという「虚実皮膜論」(『難波土産』)も有名です。

江戸中期

演劇(浄瑠璃)

大坂道頓堀の竹本座と豊竹座が競い合って作品を発表し、人形浄瑠璃は最盛期を迎えます(正本〈浄瑠璃の刊本〉はおおむね半紙本)。この頃、複数の作者による分担執筆が一般化、『菅原伝授手習鑑』は竹田出雲・並木宗輔ら4人の合作、『義経千本桜』と『仮名手本忠臣蔵』は竹田出雲(二世)ら3人の合作です。近松半二)以降衰退しますが、今でも文楽の名で生き残っています。

江戸後期

演劇(歌舞伎)

化政期(1804‐30)には鶴屋南北(四世)が登場、「生世話」(写実的な演出)というジャンルを確立させます。代表作は『東海道四谷怪談』(文政8年〈1825〉初演)、お岩の髪梳きの場面など、悲惨さを効果的に演出しました。展示本は、筋書きを挿絵入りで紹介した正本写し合巻の『東街道中門出魁 四ツ家怪談』(文政9年刊、初印本の外題は「名残花四家怪譚」)。

芸能(歌舞伎・落語)

明治政府は、演劇改良を唱え、歌舞伎に文明国にふさわしい内容と性質を求めました。江戸時代の末から主要な作者であった河竹黙阿弥は、これに応え、新しい社会風俗を取り入れた世話物の散切物、史実に即した時代物の活歴物を創作しましたが、一般には不評でした。この時期の作品に、散切物の『島鵆月白浪』、世話物の『天衣紛上野初花』などがあります。落語の名匠三遊亭円朝も明治初期に活躍し、『真景累ヶ淵』などを創作しました。その語り口は、言文一致体の文章の誕生にも影響しています。