和歌・連歌・和学

上代

和歌

『万葉集』は全20巻で、何次かの編集段階を経て、奈良時代の末頃に成立したと考えられています。年代はほぼ舒明朝(629~642)から天平宝字3年(759)にわたり、作者は天皇から庶民に及び、約4500首を収めています。いわゆる万葉仮名で書かれているのが特徴です。主な歌人として柿本人麻呂・山上憶良・山部赤人・大伴家持らがあり、上代のみならず日本文学を代表する作品の一つです。

平安時代初期

和歌

平安時代初期の和歌は、いわゆる六歌仙(遍昭・在原業平・文屋康秀・喜撰・小野小町・大伴黒主)に代表され、遍昭・業平・小町についてはその歌集が伝わっています。この時期の終わり頃には、現存最古の歌合である『在民部卿家歌合』や、『寛平御時后宮歌合』といった歌合も成立しました。大江千里の『句題和歌』は、漢詩句の内容を和歌に表現したものとして注目されます。

平安時代中期~後期

和歌

この時期は、和歌が漢詩文の下風を脱して、公的な文学としての地位を確立しました。その象徴としての最初の勅撰集である延喜5年(905)撰進の『古今和歌集』を初めとして、『後撰和歌集』『拾遺和歌集』の勅撰集が成立し、私撰集や個人の歌集が編まれ、歌合が盛んに催されました。代表的な歌人に、紀貫之・和泉式部らがあります。藤原公任の『新撰髄脳』などの歌論も書かれています。

院政期

和歌

院政期にも和歌は引き続き盛んで、勅撰集として『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』『詞花和歌集』が成立したのを初め、私撰集がしばしば作られました。代表的歌人として、源俊頼・西行・藤原俊成らがあります。『堀河百首』以下の百首歌がたびたび編まれたこと、源俊頼『俊頼髄脳』・藤原清輔『奥義抄』などの歌学書・歌論書があいついで著作されたこともこの時期の特徴です。

鎌倉・南北朝時代

和歌

武家に対抗した後鳥羽院は、貴族文化の和歌を推進します。史上最大規模の「千五百番歌合」が催され、八代集の最後を飾る『新古今和歌集』が編纂されました。私家集では、万葉調の歌を詠んだ源実朝の『金槐和歌集』が名高く、この頃、藤原定家の撰とされる『小倉百人一首』も編まれます。和歌への批評意識から、定家の『近代秀歌』や鴨長明の『無名抄』など歌論も作られました。

室町・安土桃山時代

和歌

室町時代になると、『新続古今和歌集』を最後に勅撰集は幕を閉じます。足利義教に嫌悪され、勅撰集への入集を拒否されたものの、流派にとらわれない旺盛な作歌活動を展開した室町歌人として、正徹が注目されます。『草根集』には一万首を越す詠歌が伝えられ、弟子による聞き書き『正徹物語』には、余情・妖艶の新古今調への復帰を主張し、藤原定家を尊崇する姿勢がうかがえます。

連歌

連歌は、和歌の上の句と下の句を別の人が詠み、その唱和のしかた(付け合い)を楽しむ文芸です。平安時代から和歌の余興としてなされ、南北朝時代に、時の関白二条良基らによって初の連歌集『菟玖波集』が編まれます。室町時代には心敬などの連歌師が現れ、連歌論集『ささめごと』を著し、宗祇らの『新撰菟玖波集』によって大成し、俳諧の連歌から近世の俳諧へと継承されます。

江戸前期

和歌・和学

細川幽斎が没すると古今伝授は御所へと入り、後水尾院・霊元院が堂上歌壇を領導、これとは別に地下歌人たちも門流ごとに勢力を拡大させます。堂上・地下を問わず、二条派風の温雅な詠風が特徴ですが、木下長嘯子など異色の歌人も現れました。出版が普及して多くの古典に流布本が備わる一方で、契沖は古典研究に文献学の方法を持ち込んで大きな成果を挙げました。

江戸中期

和歌・和学

堂上歌壇最後の領袖は冷泉為村で、江戸の武家方をはじめ各地に門人を抱えましたが、その為村に破門された小沢蘆庵は「ただこと歌」を提唱、心情を平易なことばで詠うことこそ大切だと主張しました。賀茂真淵・本居宣長が登場して国学も大きく進展、「もののあはれを知る」(『源氏物語玉の小櫛』ほか)説は、中世以来の教戒的文学観から文学を解放した画期的なものでした。

江戸後期

和歌・和学

小沢蘆庵に私淑した香川景樹が「しらべの説」を主唱して和歌の革新を進め、桂園派は全国を席捲します。その流れは幕末の八田知紀を経て高崎正風へと継承され、明治の御歌所へと展開しました。そうした全国的な動きとは別に、良寛(越後新潟)や橘曙覧(越前福井)・大隈言道(筑前福岡)らの地方歌人、野村望東尼・大田垣蓮月などの女流歌人も独自の地歩を築きました。

明治時代初期

和歌・俳諧

和歌は、明治20年代までは桂園派を中心とする旧派の支配下にありました。宮中の御歌掛の歌人高崎正風がその領袖です。俳諧は目立った作者はいませんが、江戸時代から引き続き一般の間に盛んで、撰集も多数刊行されています。中には新時代の事物・風俗を題材にして新味を出した作も見られますが、概して発想や表現が画一的で、後に正岡子規により、天保以後の俳諧は一括して「月並調」と批判されることになります。