漢詩文・伝記・漢学・詩

上代

漢詩文・伝記

『懐風藻』は、天平勝宝3年(751)成立。中国文学の影響下に生まれた現存する日本最古の漢詩集で、近江朝(667~672)から奈良時代中期までの詩約120首を収めています。撰者は未詳で、淡海三船・葛井広成・石上宅嗣などの推定説があります。また漢文の伝記として、恵美押勝・延慶撰の藤原鎌足と子息の伝『家伝』、淡海三船撰の鑑真の伝『唐大和上東征伝』が伝わっています。

平安時代初期

漢詩文

平安時代初期は、「文章経国」(漢詩文によって国を治める)の思想を背景に漢詩文が盛んに作られ、小野岑守撰『凌雲集』、藤原冬嗣ほか撰『文華秀麗集』、良岑安世ほか撰『経国集』のいわゆる勅撰三集が、810~20年代にあいついで成立しました。ほかに個人の詩文集として、宗教的な詩に特色のある空海の『遍照発揮性霊集』、都良香の『都氏文集』、島田忠臣の『田氏家集』などが伝わっています。

平安時代中期~後期

漢詩文

前の時期に引き続き、文人貴族の間で漢詩文が盛んに作られました。撰集として、代表的なものに紀斉名撰の『扶桑集』、高階積善撰の『本朝麗藻』、藤原明衡撰の『本朝文粋』があり、個人の詩文集として菅原道真の『菅家文草』などが伝わっています。藤原公任撰の『和漢朗詠集』は、収録された漢詩文の秀句が後代の文学に与えた影響の大きさにおいて重要です。

院政期

漢詩文

前代に比べると文学の中での相対的地位はやや低下したものの、漢詩文は依然として行われていました。撰集として『本朝無題詩』『本朝続文粋』『中右記部類紙背漢詩集』があり、個人の詩集として藤原忠通の『法性寺関白御集』などがあります。藤原基俊によって、『和漢朗詠集』を継いだ『新撰朗詠集』も編まれました。

江戸前期

漢詩・漢学

儒者は、人倫道徳を重んじて現実を尊重したので、漢詩文はあくまでも余技に過ぎませんでしたが、他方、隠者石川丈山と日蓮宗僧侶元政は、儒学と切り離して詩文を深く修めました。貞享・元禄期(1684‐1704)になると、京に伊藤仁斎が登場し、人情を寛容に受け止める儒学説(仁斎学・古義学)を主唱、漢学を朱子学の道学主義から解放する緒を切り開きました。

江戸中期

漢詩・漢学

正徳・享保期(1711‐36)には、江戸に荻生徂徠が出て独自の儒学説(徂徠学)を展開、その門流(古文辞派)の中には、服部南郭など詩文を専修する詩人が輩出して、漢学の儒学からの分離が進みました。やがて江戸に山本北山が登場し、古文辞派による擬古主義を痛烈に批判、自己の真情と目前の景を率直に詠うべきだと主張して、詩壇は唐詩風から宋詩風へと転換します。

江戸後期

漢詩・漢学

備後神辺の菅茶山は日常的な詩情を重視して清新な詩風を示し、他方、市河寛斎を盟主とする江湖詩社からは、やはり宋詩風を重んじた大窪詩仏や柏木如亭が現れて化政期(1804‐30)詩壇を牽引しました。詠史詩に特徴を見せた頼山陽や、江馬細香ら女流も出現、三都を中心に地方にも高名な詩人が輩出して漢詩は隆盛を極め、この傾向は明治の半ばあたりまで続きました。

明治時代初期

漢詩文

漢詩文は、欧化の風の吹いた明治時代になっても男子の教養の一環として重視され、相変わらず盛んでした。おびただしい数の撰集・個人の詩文集・作詩の参考書が刊行されています。明治初期には、特に森春濤・大沼枕山・小野湖山らの詩名がありました。春濤は清詩、枕山は宋詩、湖山は唐詩を宗とした点が対照的です。

明治15年、外山正一・矢田部良吉・井上哲次郎による『新体詩抄』が刊行されました。ヨーロッパの詩の翻訳と、それに倣った創作詩から成る詩集です。それまで「詩」は専ら漢詩を意味していましたが、漢詩に対し、日本語による長詩を「新体詩」と称したものです。七五調文語体という制約はありましたが、日本の近代詩の出発点を成したもので、直後に刊行された竹内節編『新体詩歌』を初め、追随作が続きました。